加藤さんが編集長を務めた『レゲエ・マガジン』は39号まで刊行された。そして、40号からは小生が編集長をすることになった。小生が29歳の時だった。このあたりの経緯については、これまで書いたことはなく、私事ではあるが、少し綴ってみたいと思う。 僕は、加藤さんの誘いがなかったら、今のようにレゲエの物書きになっていたかどうかはわからない。音楽の原稿は80年代の半ばには書き始めていたけれど、その頃はレゲエ専門というわけではなかった。89年には、山名昇と雑誌『CHRONICLE』を一緒に立ち上げる計画もあった。駒場東大裏の渋谷区富ヶ谷にはそのための事務所もあった。しかし、それはいろんな事情で頓挫した。その時から、僕と山名との関係も良好なものとは言えなくなった。実はその事務所がナツメグというインディ・レーベルの事務所になった。そこからは、ピアニカ前田やフェダイン、さかなといった最初期のナツメグの作品群が生まれた。そこの事務所は、チエコ・ビューティやトーキョー・ナンバー・ワン・ソウルセットなどを手がけるようになった代々木のマンションの一室に移転するまで機能していた。 僕がナツメグに参加した頃はまだ大学院の学生だった。二足のわらじ状態だったわけだ。「渋谷系」なる言葉が生まれる直前の時期。日本におけるクラブ・ミュージックの黎明期と言っていいだろう。そのころはメジャー・フォースが先を走っている状態だったが、クラブ・ミュージックはこれからの時代絶対に面白くなるからと、ナツメグの中村ザビとレゲエやヒップ・ホップなど多くのアーティストを手がけるようになった。 僕はナツメグで制作や宣伝やアーティスト・マネージャー、デザインなどなど何でもしたが、92年の夏にそこを離れることになった。チエコ・ビューティのアルバム『ビューティーズ・ロック・ステディ』が92年6月21日の発売で、そのツアーの後にやめたのだった。日本で最初のワン・ウェイ・アルバム『Hard Man Fi Dead』の制作はやりかけのまま。 それからタキオンに合流したのは加藤さんの誘いがあったからだ。加藤さんは僕と山名の顛末を知っていながらも誘ってくれた。ある日、渋谷のジャマイカ料理店ロシナンテに呼び出され、タキオンの畑中社長と加藤さんに『レゲエ・マガジン』入りを請われたのだった。ちょうどその時、編集部にいた横尾さんが体調を崩し、スタッフが足りなかったこともあったのだろう。 誘われた時点で、実は「次の『レゲエ・マガジン』の編集長は頼む」と言われていた。最初は話半分にそのことを聞きつつ「僕なんかで良いんですかねー、僕に出来ますかねー」などと言いつつ、「ま、編集長という話はさておき、やってみます」とタキオン入りすることになったのだった。 タキオンに顔を出すようになったのは92年の7月末だっただろうか。最初は、「ま、校正でも見てよ」と8月頭に出る予定の『レゲエ・マガジン』30号の校正をもくもくと見たのを思い出す。僕のことはきちんとした紹介はなく、編集部の山崎真理子は、校正を見るヘルパーが来たのだと思ったそうだ。その時に、タキオンにあったMacの状態があまり良くないので、校正の合間に環境設定したり、使いやすいように設定を変えたりもした。だから、あのころのタキオンのスタッフは、僕のことを最初はMacのエンジニアかなんかだと思っていた人も少なくない。そのまま「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」の横須賀公演にスタッフとして入り、なんだか慌ただしく昔からいたような顔をして仕事していたのだった。 93年には『レゲエ・マガジン』の傍ら、タキオンがマネージメントしていたナーキのマネージメントの手伝いという時期もあった。これはマネージメントの経験があると言うことで、前任者から後任の亀田泰に引き継ぐまでの間の暫定的なモノでしたけどね。 94年4月発行の『レゲエ・マガジン』40号から編集長を引き継いだが、引き継いでからは雑誌の誌面についてどうこう言われたことは一度もなかった。そういう意味では凄くやりやすかった。 当時の僕は(今もだけど)、尖っていて口が悪かった。そんな僕を加藤さんはかなりフォローしてくれていた。加藤さんは厳しいところのある人だったけれど、僕には優しかった。僕の何をそんなに買ってくれていたのかわからないけれど。同僚の高橋瑞穂のことはかわいいのはよくわかった。大学の後輩で、同じ東北出身で、新卒で就職活動して「レゲエ業界」に飛び込んできた存在がかわいくないはずがない。でも、「僕のどこを・・」とはいつも思ってた。 加藤さんの後を引き継ぎ、雑誌を作っていたモノの、僕が経済学を専攻しなまじ大学院まで出ていたということを見込まれてか、「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」全体の経費を見させられたり、「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」の収支計画や新たな合弁事業の企画書を書かされたり・・、ということをさせられるようになった。だから他の社員よりもタキオンという会社の経営的な側面が見えてしまった。 「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」はよみうりランドを離れ、確かに集客は増えていたけれど、もの凄く儲かるビジネスではなくなりつつあった。それは、ガゼッタによる「レゲエ・サンスプラッシュ」など他にもレゲエ・イベントが登場し、ギャラの高騰などもイベントを圧迫する一要因になっていた。言葉は悪いけれども、「僕らが乗っている船は泥舟だ」ということに気がついてしまった。それに反して、事務所は大きな立派な事務所に移るし、ソニーや伊藤忠との合弁ビジネスは始まるし、傍目から見ると凄く順風満帆に見えていたのかもしれない。しかし、僕は違っていた。それがうわべだけの張り子の虎であることをわかっていただけに、それが嫌で嫌で仕方なかった。かっこよくいえば、まだ純粋だったのかもしれない。そうこうしてるうちに95年、1月に阪神淡路大震災が起き、3月には地下鉄サリン。会社に対する不満と都市生活することへの不安みたいなものがまぜこぜになって僕の緊張に糸は切れ、95年いっぱいでタキオンをやめることを決意した。結果的には逃げたのだった。今振り返ると僕もガキだった。情けないぐらい。でもその時はそのような結論しか見いだせなかった。 その時の決断について、無責任だと思った人がたくさんいたと思う。加藤さんもそう思ったかもしれないが、僕が「やめたい」という話をしたときに、「もう少し何とかならないか」という話をしてくれたとともに、「こっちから誘っておきながらやりたいようにやらせてやれなくて済まなかったなぁ」と逆に謝られてしまった。その上で、「『レゲエ・マガジン』の編集長はオレとお前しかいないんだから」とも話してくれた。結局、僕の後任の編集長は立てないという奇妙な状態で『レゲエ・マガジン』は続いたのだった。 タキオンの状況については、僕がわかっていたぐらいだったから、状況が厳しいことを、もっと経営の内部にいた加藤さんはよくわかっていたはずだった。僕に『レゲエ・マガジン』を任せるときに、「オレは金を引っ張ってくる仕事しなきゃいけないからさ」と言ったモノだった。 結果的にタキオンは倒産した。僕が想像したよりは持ったけれど、それほど長くは持たなかった。『レゲエ・マガジン』はそれに先立ち、97年の6月に59号で廃刊となった。 僕がレゲエ・マガジンを離れてからの加藤さんの仕事について僕には語る資格はない。ロッキング・タイム、メガリュー、パンなどレゲエの制作者としてのご活躍は知ってはいたけれど、不義理を続けていたのだから。 加藤さんはとても厳しい人でもあったが、優しい人だった。 自分の仕事にプライドを持っていた。 バンドスタイルでアーティストにステージをさせることに拘り抜いていた。 バンドも手練れじゃなきゃ嫌がったし、エンジニアまできっちりジャマイカから呼んで、音の出口まで拘らなきゃ気の済まない人だった。「レゲエってのは音の出口まで責任とる音楽なんだ」と。そのイズムは、タキオンのみんなに浸透していたし、いまやマイティ・クラウンを取り仕切る小松淳子にだってそのイズムは流れている。 イスラエル・ヴァイブレーションの公演を見たある人に、「タキオンもこういう公演やんなきゃ・・」と言われ、「あいつに何がわかる・・」と真剣に怒っていたこと。 飲むときはいつもキリンの瓶ビール。 ハイライトをチェーン・スモーク。 二日酔いの朝は缶のコカ・コーラ、二日酔いがそれほどでも無い日は缶コーヒー、ジョージアの思いっきり甘いヤツ。 ブラック・ホークのオーナーだった水上さんの影響もあってサッカーが大好きだった。 高橋瑞穂と東北弁で喋るときは機嫌がいいときだった。 弁当じゃないときはラーメンばっかり。 自分で原稿を書くときは桜井剣助というペンネームを使うことがあった。 夕方5時頃になると行き先を書くホワイトボードにアルファ(・エンタープライズ)と書いていなくなることも多かった。そういうときは直帰で、恵比寿や渋谷の飲み屋でキリンビールと向き合っていた。僕と亀田はそんな加藤さんを、「また直帰だよ」なんて言いながらも憎めずにいた。 酒癖は決して良くはなかった。僕も何度かお酒飲んでもめたことある気がするけど、忘れちゃった。 毎週水曜日の朝のミーティングで僕が毒をはき続けていられたのも加藤さんのおかげだった。加藤さんが必ずフォローしてくれていたから。 加藤さんがいなければ、加藤さんが僕に声をかけてくれていなければ、僕はこうしてこのサイトで原稿を書いていることもなかった。 僕の人生を大きく変えた一番の人物こそ加藤学さんだった。 結局、感謝の言葉を伝えることも出来ず、「ありがとう」の一言も言えなかった。 こうやって過去形で文章を綴らなければならないことがたまらなく辛い。 本当に不肖の弟子ですいません。 加藤さんありがとうございました。
藤川 毅 [ふじかわたけし]
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