藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE

 さて、今回から始まりました本連載。「虎の穴」というタイトルがついていますが、毎回一つのお題をネタに好き勝手書かせていただくというモノです。好き勝手に書くだけでは、24×7レコードの方々に叱られちゃうので、少しは読者の方に有益な情報をちりばめられればいいなと思っております。

 さて、今回与えられたお題はVPより一昨年リリースされたレゲエ・アンソロジー・シリーズランディーズ50周年記念盤(2CD+1DVD)です。さて、24×7レコードはなぜこのランディーズ50周年記念盤(以下、50周年盤)を選んだのでしょうね。そのあたりも含めて、話を進めていくことにします。


 まず、ランディ(ーズ)という言葉を定義しておきましょう。

 1 かつてキングストンのノース・パレードにあったレコード店
 2 そのレコード店主=ヴィンセント・チンのニックネーム
 3 ヴィンセント・チンがリリースするときに使ったレーベル名
 4 そのレコード店の二階にあったスタジオ
 5 レコード・ディストリビューター(流通業者)

Pat&Vincent Chin
ヴィンセント・チンとパトリシア・チン

 ということになるでしょうか。そもそもは、レコード店主のニックネーム、ランディからスタートしていることがわかりますね。ではなぜランディというあだ名だったのか? 50周年盤DVDの中でも触れられています。ヴィンセントは、アメリカのテネシー州ナッシュヴィルにある放送局WLACが放送していたジーン・ノーブルズがDJをつとめる番組の熱心なリスナーでした。その番組は、テネシー州にあるレコード店、ランディーズ・レコード・ショップによる提供だったので、その番組の熱心なファンだったヴィンセントはランディと呼ばれるようになったのです。

 ランディことヴィンセントは、1937年10月3日にジャマイカのキングストン生まれ。名前から察しがつくように、中国系です。ジャマイカ音楽の熱心なリスナーならジャマイカ音楽のプロデューサーや音楽関係者にリーさんやらコングさんやらフーキムさんなど中国系だと思われる名前に出会ったことがあるでしょう。ジャマイカには中国系の人たちが多く住んでいるのです。ヴィンセントがキングストンのイースト通りとタワー通りの角にレコード店を出したのは22歳になる年でした。彼が、そのレコード店に彼のニックネームからランディーズとつけたのは先に書いたとおりです。ヴィンセントは、レコード店を開く前、ジュークボックスの仕事をしていました。チャンネル・ワン・スタジオやレーベルを運営したフーキム兄弟の一族もジュークボックスの仕事をしていた中国系ジャマイカ人でした。ジュークボックスは、かつては人気があったものの、その人気は60年代に入りラジオの普及が高まるにつれ下火になっていきましたから、同じ音楽に関わる仕事としてジュークボックス業からレコード店〜音楽制作というのは自然の道だったのかもしれません。ジュークボックスの仕事は、レコードの入れ替えや機械に集まったお金を回収するのが主な仕事です。つまり、今、街ではどんな音楽が人気あるのかと言うことを的確に把握できる仕事だったわけですね。ジュークボックスの仕事をしながら、実は音楽業界のマーケティングが出来ていたわけです。ですから、その感覚を活かしてレコード店を開くのは当然の成り行きだったかもしれません。

 サウンド・システムの運営から音楽制作やレコード店経営の道に進む人もとても多いです。それはサウンド・システムも、観客の反応をダイレクトに見ることが出来るという意味では、ある種のマーケティング的な側面があるわけですね。音楽制作のきっかけとしてサウンド・システムオーナーであることはこれまでも言及されてきました。コクソン・ドッド、デューク・リード、キング・エドワーズ、そしてプリンス・バスターなどはサウンド・システムのオーナーでした。でも、前職が、ジュークボックス関係者であることが音楽制作への道だったということはこれまであまり書かれてこなかったように思いますので、あえてここではっきりと書いておきたいと思います。

RANDY'S store
ランディーズ・レコード店

 さて、59年にレコード店を開店したヴィンセントですが、61年にはキングストンのノース・パレード17番地にその場所を移します。有名なランディーズ・レコード店は通常この場所にあったレコード店のことを指します。そのレコード店は98年まで続きましたから、そのレコード店を目にしたことがある日本人もたくさんいることでしょう。

 さて、ノース・パレードにレコード店を出した61年頃、ヴィンセントは音楽制作にも着手します。その頃の録音が50周年盤の冒頭に収録されている楽曲達。この頃は、自前のスタジオを持っていないのでケン・クーリのフェデラル・スタジオなどが録音に使用されていました。61年というとスカの誕生前ですから、ジャマイカ風のブギーやR&Bスタイルの曲を録音していたわけです。50周年盤[1]2のアルトン(・エリス)&エディ(・パーキンス)などがその頃の録音ですね。ちなみにこの曲は英国ではクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードからカタログの9番としてリリースされました。最初期のヴィンセントさんの制作曲で最も重要なのは最初の大ヒット、ロード・クリエイターの「Independent Jamaica」( 50周年盤[1]1)でしょう。これは英アイランドのカタログの1番です。クリエイターはすでに「Evening News」などをヒットさせていたトリニダード・トバゴのカリプソ歌手でした。ツアーでジャマイカにやってきたクリエイターにヴィンセントは、「ジャマイカ独立の気運を高めるような曲を書いて歌ってくれ」ということで誕生したのがカリプソ調の「Independent Jamaica」だったわけです。 ジャマイカの独立は1962年のこと。そのタイミングを上手にとらえたヴィンセントの作戦の勝利でした。この曲のヒットでヴィンセントの名前は一躍知られるようになり、クリエイターとヴィンセントはたくさんの曲を制作します。これらはVPからリリースされたロード・クリエイター『GREATEST HITS DON'T STAY OUT LATE』にまとめられているので是非とも聴いてください。クリエイターのスムースな歌唱もさることながら曲の良さ、演奏の良さも楽しめます。UB40がカヴァーしたヴァージョンの「Evening News」のオリジナルも収録しています。

ロードクリエイターのRandy's盤
ロード・クリエイター『GREATEST HITS DON'T STAY OUT LATE』のRandy's盤

 さて、50周年盤にはCDが2枚収録されています。それらは、大まかに1枚目がヴィンセント制作、2枚目がヴィンセントの息子クライヴ制作編と分けて良いでしょう。ヴィンセント編の、スカ時代の名演はスカタライツのメンバーを中心に録音されたモノで、スタジオ・ワンやトレジャー・アイル、トップ・デックへの録音とは違う演奏を楽しめます。それらも98年にVPよりリリースされた『SKATALITES & FRIENDS AT RANDY'S』にまとめられていますので、こちらも必聴です。

 さて、先を急ぎます。CDの2枚目はクライヴ編だと書きました。クライヴは、父の影響もあり71年、18歳の時に音楽制作を始めます。最初の録音は、クライヴと同じくキングストン・カレッジに通っていたオーガスタス・パブロの録音でした。パブロは、そのときすでに初録音を済ませていました。それは、ハーマン・チン・ロイの制作により、ランディーズ・スタジオで録音された「Iggy Iggy」。ちなみにホレス・スワビーという本名を持つ少年にオーガスタス・パブロなる芸名を授けたのは、ロイでした。さて、パブロの初録音はランディーズ・スタジオだと書きましたが、このスタジオはいつできたのでしょう?

パブロのデビューシングル'iggy iggy'
パブロのデビューシングル「Iggy Iggy」

This Is Augustus Pablo
This Is Augustus Pablo
THIS IS AUGUSTUS PABLO

 このスタジオは、レコード店の二階に68年に作られました。初期のスタジオでは、ウェスト・インディーズ・レコーディング・スタジオのエンジニアだったビル・ガーネットがつとめました。これは68年にウェスト・インディーズ・レコーディング・スタジオが焼失し、仕事が無くなっていたビルをランディーズ・スタジオに迎い入れたのです。このスタジオはヴィンセントの制作でももちろん使用されましたが、初期の顧客はジョニー・ナッシュとアーサー・ジェンキンス、ダニー・シムズからなるプロダクション=JADで、クインシー・ジョーンズやヒュー・マセケラなども使用していたそう。そのような縁からJADが関わっていたハリー・ベラフォンテがマンハッタンに所持していたインパクト・スタジオの仕事を、JADがビル・ガーネットにオファーし、ビルはニューヨークのインパクト・スタジオに移籍します。クライヴは10代後半の時期にこのインパクト・スタジオを訪問し、まさに衝撃〜インパクトを受けました。その時にスタジオから持ち帰った一枚のスタジオ・シートを父ヴィンセントに渡したことにより、ランディーズはインパクトというレーベル名も用いるようになったのです。 ちなみにJADはアイランドと契約する前のボブ・マーリーの音源を数多く管理しています。レゲエ・ファンは記憶しておいた方がよいでしょう。

 後にランディーズ・スタジオの看板エンジニアとなるエロル・トンプソンがランディーズに入ったのは70年頃のこと。エロルはランディーズ・スタジオでエンジニアとしての頭角を現し、後にジョー・ギブスと組み、マイティ2として多くの制作に関わり、自身もダブ・エンジニアとしてアフリカン・ダブなどのシリーズを発表しました。エロルはスタジオ・ワンでエンジニアのシルヴァン・モリスのアシスタントの経験はありましたが、エンジニアの経験はほとんど無く、ビルからの技術を得たヴィンセントらがエロルを育てました。クライヴが制作したパブロの最初期の録音を集めたアルバム『THIS IS AUGUSTUS PABLO』の裏面に写っている写真にはランディーズ・スタジオでの貴重な写真が掲載されています。左からデニス・トンプソン、受話器を持っているのがエロル・トンプソン、後方がクライヴ、そして右端がパブロです。

 さて、50周年盤の2枚目、クライヴ制作集はランディーズ・スタジオでエロル・トンプソンのエンジニアで録音されたものです。クライヴ編の中身に触れる余白が無くなってしまったけれど、処女作パブロ「Java」からスムースなソウル・カヴァーやファンク調やルーツまで、数多くのユニークな楽曲が制作されてきたことは聴いていただければおわかりになると思います。ラストのカール・マルコムの「Fattie Bun Bun」はジャマイカではいつの時代も歌われるふくよかな女性への賛歌ですが、マルコムには「Miss Wire Waist」という針金のようなウェストの女の子のことを歌ったヒット曲があることも申し添えておきます。相対するテーマの曲を、バランスをとるために歌うというのも、かの国ではよくあることです。

 さて、ランディーズ・スタジオは79年まで稼働しました。ヴィンセントと妻のパトリシアは77年にニューヨークに移住したので、クライヴもそれを追って後にニューヨークへ移ります。移住したチン夫妻はレコード・ショップを開きました。その名前は、ヴィンセント(Vincent)とパトリシア(Patricia)の頭文字をとってVP Recordsと名付けられ、今や世界最大のレゲエ・ディストリビューターとなったのです。その世界最大のディストリビューターであるVPの日本代理店24×7レコードのサイトで始まったこの新連載が、ランディーズの50周年盤をお題に始まった理由はおわかりいただけただろうか? ランディーズこそVPの起源だったからというわけですね。今回書けなかったたくさんのことは、今後の連載でも少しずつ披露したいと思うので、来月も楽しみにしていただければ幸いです。


藤川 毅 [ふじかわたけし]
1964年鹿児島市生まれ。
高校卒業後、大学進学のため上京。
大学在学中より音楽関係の仕事をスタートし、『レゲエ・マガジン』の編集長など歴任するも、思うところあり、1996年帰郷。
以来、鹿児島を拠点に会社経営をしつつ、執筆活動などを続ける。
趣味は、自転車(コルナゴ乗り)と読書、もちろん音楽。
Bloghttp://www.good-neighbors.info/dubbrock
Twitterhttp://twitter.com/dubbrock

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