藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE

 没後10年に発売されたVP RECORDSからの『REGGAE ANTHOLOGY - GARNET SILK : MUSIC IS THE ROD』を聴いています。耳に馴染んだ曲ばかり。

 ガーネット・シルクが活躍していた92年から94年というのは、僕が『レゲエ・マガジン』の編集に携わっていた時期とピタリと当てはまる。ボクが28歳から30歳ぐらいの時の話です。『レゲエ・マガジン』という雑誌の編集に携わり、94年からは編集長を務め、同じ会社で行っていた「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」をはじめとするレゲエ・イヴェントの企画に関わり、仕事もプライヴェートもレゲエ、ジャマイカ漬けだった日々。ガーネット・シルクの曲を聴いていると、毎日毎日、来る日も来る日もレゲエのことばかり考えていたといっても過言ではない頃のことを思い出すのです。

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『レゲエ・マガジン』
『レゲエ・マガジン』

 92年の前半は、チエコ・ビューティの『BEAUTY'S ROCKSTEADY』というアルバムの制作と、こだま和文さんの初のソロ『QUIET REGGAE』の制作に関わっていました。だからそれ以前も、仕事としてレゲエとは関わっていたし、すでに学生時代から音楽の原稿も書いていたので、音楽を仕事にしていたには違いないですね。でもレゲエ一辺倒だったわけではなく、トーキョー・ナンバーワン・ソウルセットのA&R・マネージャーも担当していたし、他にも数多くのヒップ・ホップやジャズ、ロックのプロモーションなども担当していました。公私ともにレゲエ一辺倒になったのは、92年の夏以降のことでした。92年から95年いっぱいの3年半は本当に来る日も来る日もレゲエとジャマイカで頭がいっぱいの日々だったのです。

 そんな時期にもっとも強い印象を残した新進アーティストというと、ブジュ・バントンとガーネット・シルクということになります。

ガーネット・シルク
ガーネット・シルク
『REGGAE ANTHOLOGY - GARNET SILK』ブックレットより

「Fill Us Up With Your Mercy」/Jammys
「Fill Us Up With Your Mercy」

 今回の連載では、12月10日がガーネット・シルクの命日であることから、ガーネット・シルクについて12月公開分で書きなさいと言うのが24×7 RECORDSからの指令です。どんな経歴で、どんな曲やアルバムを出していて…というのを書くのはたやすいけれど、今回は僕の『レゲエ・マガジン』時代を振り返りつつ、ごくごく私的な私感を書いてみることにします。

 ボクがガーネット・シルクの曲を最初に聴いたのは、スティーリー&クリーヴィ制作のコンピレーションに入っていた曲でした。でも、そのときはガーネット・シルクという存在にまだピンと来ていませんでした。やはり注目しはじめたのは〈ジャミーズ〉からの「Fill Us Up with Your Mercy」あたり・・・、いや〈ペントハウス〉でのトニー・レベルとの「Christian Soldier」が先だっただろうか? とか当時レゲエを聴いていた多くの人と同様の感じです。「Fill Us Up With Your Mercy」の後は、〈デジタル・B〉からの「Place In Your Heart」、スター・トレイルからの「Hello Africa」とヒットも連発でしたから新作7インチが出たら必ず買うという感じになりましたけどね。

 サンチェス、ウェイン・ワンダー・・・といったその前のジャマイカの人気シンガーのトレンドからすると、今となっては彼がいかに異質なのかがわかります。サンチェスもウェインも素晴らしいラブ・ソングを歌う優れたシンガーですが、シルクはタイプが違います。そのあたりを、これからの原稿で何となくでも感じ取ってもらえると幸いです。

 シルクが頭角を現したのは92年。もう18年も前のことです。僕の感覚では「ちょっと前」な感じなのですけどね。だから、若いファンのためにも、92年という年がどんな年だったかを少しだけ振り返ってみます。当時は夏に「ジャパンスプラッシュ」という野外のレゲエ・イヴェントがありました。85年が1回目だから92年は8回目。スタート当初は東京・よみうりランドイーストで行っていたけれど、91年から横須賀に会場を移していました。92年は横須賀開催の2回目。そのときの出演アーティストを書き並べてみますね。

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ジャパンスプラッシュ'92/japansplash'92 ジャパンスプラッシュ'92

レゲエ・スーパー・バッシュ
レゲエ・スーパー・バッシュ

トリコロールの衣装のブジュ・バントン ブジュ・バントン(ジャパンスプラッシュ'92)

 ニンジャマン、グレゴリー・アイザックス、アルトン・エリス、アドミラル・ベイリー、ベレス・ハモンド、タムリンズ、ココ・ティ、ルーテナント・スティッチー、タイガー、ジャック・ラディックス、ブジュ・バントン、マキシ・プリースト、トリスタン・パーマ、ナーキ、こだま和文・・・他にも多数。いやー凄いです。アルトン・エリスのコーラスをタムリンズがやったり、ニンジャマンの時のバンドがデリック・バーネット率いるサジタリアスだったり、細かいこと書くと山のようにあります。つい先日亡くなったグレゴリーもこのときが初来日。ベイリー、ベレス、ブジュなども初来日でした。

 凄いでしょ。この頃は、レゲエが金になるなんて言う時代だったんですよ。スーパー・キャット、シャバなどが米メジャー・レコード会社と契約し、その後も多くのレゲエ・アーティストが続々と契約しそうな勢いだったし、92年の「ジャパンスプラッシュ」のスポンサー、JAL(日本航空)ですもん。凄いですよね。今振り返ると、レゲエ・バブルだったんですよ。80年代半ばからのデジタル・ダンスホールの波の最初の本格的なピークだったといえるかもしれません。ある意味では、そのアイコンが「ジャパンスプラッシュ」だったかもしれませんね。横須賀のようなアクセスの悪い野外に4万人も集まっていたんですから。「フジロック」が始まるより前の話です。


 この「ジャパンスプラッシュ」は、毎年数万人を集め、全国ツアーも行っていました。レゲエって集客凄いね。夏はレゲエらしい・・・。そうすると、二匹目のドジョウを狙うイヴェンターさんも出てくるのですね。「サンスプラッシュ」の日本公演なんてのも始まります(というか正確に書くと復活します。このあたりについては後ほど書きます)。開催時期は違いますが、オーバーヒートは「スーパー・バッシュ」というイヴェントをスタートさせましたから、アーティストの争奪戦が激しくなってきました。もちろんギャラの高騰にもつながります。ですから、イヴェントをやる側としてはとってもやりづらい時代でした。

 「ジャパンスプラッシュ」は旬のアーティストを入れたいという思いが強いイヴェントでしたので、そういう意味では92年はとても充実していたと思います。旬のDJだったニンジャマンと来日を果たしていない最後の大物といわれていたグレゴリー・アイザックスが並び、88年の来日予定が中止となり日本の地、未踏だったアドミラル・ベイリーなどそうそうたる顔ぶれ。ブジュ・バントンはまだ出始めで、「ジャパンスプラッシュ」がそれまで自分が出たステージの中で最大のショウでした。「Love Mi Brownin」などヒットはだしていたものの、まだまだポッと出の若手で、ステージが長続きせず途中で引っ込みたがるブジュは、ステージ袖のスタッフに押し戻されながらステージをつとめていました。手足が長く痩身であたまはまだ坊主頭、トリコロールの衣装も強く印象に残っています。

 でもこの年の横須賀公演は、いいことばかりではありませんでした。運営のまずさもあって、トリのグレゴリー・アイザックスがほんの少しだけ歌って終わらざるを得ないという事態に陥りました。最大の原因は、客演(ゲスト)扱いだったマキシ・プリーストが大勢の観客を前にして調子に乗って長くライブやってしまったこと。ほかにも、途中のアドミラル・ベイリーで盛り上がりすぎて、会場を仕切っている柵が倒れそうになるなどいろんなことがあり、進行が遅れたのです。僕は公演中にマキシ・プリーストにマクドナルドへフィレオフィッシュを買いに行かされたのも思い出ですw。終演後真っ暗な中、ゴミの山を掃除していたらゴミの山からガサゴソと音が聞こえるので何かと思うと、酔った女性が寝ていたなんてこともありました。その女性は身の回りの物が何もないので、スタッフが1万円貸したけれどもお金は帰ってきませんでしたw。ゴミの中にはパンティが落ちていることもありました。夏の一日、羽目を外しながら楽しんだ宴の余韻がなんともいえない感じだったのを今でもクッキリと覚えています。


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「ジワジワとチャート上昇中のガーネット・シルク」
「ジワジワとチャート上昇中のガーネット・シルク」を取り上げた記事。

 グレゴリーがほんの少ししか歌わなかったという現実はあったにせよ、92年の「ジャパンスプラッシュ」はたぶん世界中のレゲエ・コンサートの中でも出色のものだったと思っています。そんな年の翌年でしたから、前年に劣るわけにはいかないと、93年の「ジャパンスプラッシュ」の人選には力が入りました。92年のライブが終わった後から、目玉になるアーティストのリスティングをすべく動き始めたのです。その中の一人が、長い時間聴いていただけなかったグレゴリーを再び呼ぶこと、そしてなぜか92年あたりからヒットを連発しはじめ復活していたリロイ・スマートと、新進アーティストの目玉としてガーネット・シルクを呼ぶことでした。グレゴリーはさておき、ガーネット・シルクを呼ぶことは大切でした。『レゲエ・マガジン』という専門誌をやっている会社の行うイヴェントとして、「ジャパンスプラッシュ」には、きちんとレゲエのトレンドを抑えたアーティストの選考が必要でした。93年のトレンドをもっとも体現するアーティストの筆頭はシルクだったのです。

 当時の「ジャパンスプラッシュ」のアーティストの選考は、イヴェントを担当する部署と『レゲエ・マガジン』の編集、そしてCDの制作の部署が毎週水曜日朝のミーティングで意見を出し合い、そしてアーティストを絞り込んでいくものでした。『レゲエ・マガジン』の編集部は、そのときのレゲエ・トレンドから、CD制作のセクションはレコード店の動きやレコード会社のリリース状況といった視点から意見を出し合い、イヴェントのセクションは出た意見を集約し、アーティストとの交渉を担当するアメリカやジャマイカのスタッフとアーティストとの交渉に当たります。

 しかし、好きな呼びたいアーティストだけをラインアップするというのはなかなか難しいのです。「○○というアーティストのマネージャーは△△というアーティストのマネージメントもやっているから、○○を呼ぶなら△△もセットじゃなきゃ無理だ」とか、「以前に××にはお世話になっているから今回は借りを返さないと・・・」とか、「□□と※※はお互いにライヴァル心を剥き出しで仲が悪いから絶対に一緒のツアーは無理・・・」とか、笑っちゃうような話も含めていろんな大きな制約があるのです。ここでアーティストの実名は出しませんが、「あの人とのあの人は仲が悪い」とかいう話はとても意外だったりして面白かったりします。そのうえ、先に書いたように日本でのレゲエ・コンサートは増えていましたからギャラの引き上げによる争奪戦もはじまりました。しかし、「ジャパンスプラッシュ」は極端なギャラの引き上げには乗らなかったんです。なぜかというと、呼ぶアーティストの数が多いのでギャラを上げてしまうと全体のバジェットがふくれあがってしまうからですが、集客できるんだから高いギャラを払っても問題ないという考え方は、レゲエ界全体にとってあまり良い影響を与えず、 パワー・バランスを崩してしまうと言うことも理由でした。だからこそ、極端なギャラの釣り上げには絶対に対応しないという姿勢を貫きましたし、だからこそ多くのアーティスト、マネージメントの信頼も集めたのです。ここでは書けませんが、アーティストを呼べない理由というのはほかにも凄くたくさんありました。


 余談ですが、「ジャパンスプラッシュ」の1回目は、「レゲエ・サンスプラッシュ・ジャパン」として、85年にフレディ・マグレガー、ボブ・アンディ、ジュディ・モワット、ジミー・ライリーらの参加で開催されました。「サンスプラッシュ」を世界的に開催していたのはシナジーという会社でそれを運営していたのは、トニー・ジョンソンとロニー・バークでした。ロニー・バークはマイク・ジョンソンとマイクロン〈Mic+Ron〉というレーベルをやっていた人物です。1回目の「ジャパンスプラッシュ」は「サンスプラッシュ」の日本公演として行われたのですが、日本側とシナジーとでアーティストとの関係等の諸問題で決裂し、2回目からは日本側のみで「ジャパンスプラッシュ」として自分たちでアーティストをブッキングし、運営するようになりました。

レゲエ・サンスプラッシュ
レゲエ・サンスプラッシュ

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レゲエ・サンスプラッシュ'92 ワールド・ツアー
レゲエ・サンスプラッシュ'92 ワールド・ツアー

 86年以降の「ジャパンスプラッシュ」は日本独自のイヴェントとして展開していきます。以降、「サンスプラッシュ」と「ジャパンスプラッシュ」はライヴァル関係となります。この時期の日本の夏のレゲエ・イベントは、世界中でもっともお金になるレゲエ・コンサート・ビジネスとなったことに間違いありません。そのことにより、両コンサートを巡って日本での緊張関係が、ジャマイカのアーティストやマネージメント間に亀裂を生じさせたり、派閥までをも生むようなことにもなってしまいました。それは先にも少々書いたようにこのライバル間のイベントのみならず、先に書いたようなギャラの引き上げといった形で緊張が走ることもありましたし、「ジャパンスプラッシュ」に参加すると「サンスプラッシュ」には参加させないとかいう嫌がらせもありました。「サンスプラッシュ」は世界ツアーもありますし、コンサートの本数が多いのでアーティストにとっては魅力的だったのですね。それでも、「ジャパンスプラッシュ」に多くのアーティストが参加してくれていたのは、「ジャパンスプラッシュ」運営スタッフとアーティストとの信頼関係のたまものでしたし、 『レゲエ・マガジン』という雑誌がジャマイカのアーティストにとっても魅力的で、日本語で記事は読めなくともあの雑誌に載りたいと思ってくれたり・・・などいうことも信頼関係の一助にもなっていたのです。なにしろ、日本にレゲエが根づかない時期からコツコツとコンサートを積み重ね、レゲエ・ファン拡大のために、専門誌を発行し続けたのですから、ジャマイカの人たちもその姿勢をきちんと見ていてくれたわけです。一方の「サンスプラッシュ」ですが、のちにトニー・ジョンソンとロニーは喧嘩別れ。ロニーはバーニング・スピアのマネージメントとツアーを担当するなどしていました。その後、シナジーは破産しています。


 さて、話を元に戻しましょう。93年早々にジャマイカに入ったスタッフはガーネット・シルクとの交渉をスタートし、彼の「ジャパンスプラッシュ」出演の内諾を得ます。そして、『レゲエ・マガジン』用にインタビューをとり、チラシ用の撮影のスタッフもジャマイカ入りし、彼自身の撮影もするなど話は順調に進みました。そして、93年の「ジャパンスプラッシュ」の出演アーティストの発表。そこにはグレゴリー、リロイとともにガーネット・シルクの名前もありました。しかし、93年の「ジャパンスプラッシュ」の正式発表のチラシからはガーネット・シルクは外れました。そして、93年の「ジャパンスプラッシュ」にガーネット・シルクは来なかったのです。内諾から撮影、発表、そして公演までのプロセスで何がどうなったのか今でもよくわかりません。しかし、ガーネット・シルクは、別のイヴェンターによる招聘で来日し、東京・インクスティック鈴江ファクトリーのステージで歌ったのでした。それが彼の唯一の来日歴です。

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ジャパンスプラッシュ'93/japansplash'93
ジャパンスプラッシュ'93

ガーネット・シルク初来日
ガーネット・シルク最初で最後の来日。

 「ジャパンスプラッシュ」は、名うてのバンドをバックに旬のアーティストが歌ったりDJしたりするというのがキー・コンセプトでしたから、是非シルクにも「ジャパンスプラッシュ」のステージで!、という思いは強かったのですが、仕方ありません。それでも93年の「ジャパンスプラッシュ」はとてもよいアーティストに恵まれました。名前を挙げておきますね。グレゴリー・アイザックス、リロイ・スマート、マーシャ・グリフィス、ボブ・アンディ、ベレス・ハモンド、テラー・ファビュラス、ダディ・スクリュー、ジグシー・キング、トニー・カーティス、アドミラル・ベイリー、ヤミ・ボロ、シュガー・マイノット、ジョニー・オズボーン、ナーキという顔ぶれです。

 93年当時のレゲエ・シーンのポイントのひとつに“ルーツ回帰(ルーツ・ブーム)”があったので、ヤミ・ボロとともにガーネット・シルクは入れたかったのです。ヤミ・ボロは、以前にオーガスタス・パブロのロッカーズ・インターナショナルの公演で招聘したことがありましたが、92年頃にジャマイカでヤミ・ボロのステージをみたスタッフがその成長ぶりを絶賛し、是非とも呼ぶべきだということになりました。このことが、ブーム(THE BOOM)の宮沢和史とのMIYA&YAMIの伏線ともなったのです。当時のほかにもかつて「Young Gifted and Black」のヒットを放ったボブ&マーシャを実現させるべく、ボブ・アンディとマーシャ・グリフィスを一緒に招こうとか、ブジュ・バントンのフォロワーでヒットを出していたテラー・ファビュラスとジグシー・キングを両方呼んじゃうとか遊び心もありました。ジグシー・キングやトニー・カーティスが拠点にしている〈ルーフ・インターナショナル〉は、ガーネット・シルクの「Nothing Can Divide Us」などのリリースもしているレーベルなので、ジグシー、トニーをシルク招聘の伏線としていれたという意味もありました。 また、シュガーやジョニー・オズボーンのようなヴェテランのステージをじっくり愉しんでもらいたいので、クラブ・クアトロで別公演を行ったのもこの年でした。「ジャパンスプラッシュ」というイヴェントが肥大化し、昔からのレゲエ・ファンはついていけないという声が出ていたのもクラブ・ショウを行った背景にありました。

 「ジャパンスプラッシュ」の良いところは、バンドとエンジニアにも力を入れるということでした。この年は809バンドとロイド・パークスのバンド(ウィ・ザ・ピープル)でした。どのバンドもその実力は折り紙付きでした。これらのバンドからクリストファー・バーチやレンキー(レゲエ・ジーザス)といった売れっ子のトラックメイカーが誕生していることもこれらのバンドの実力の証ですね。そしてこの年のエンジニアはトニー・ケリー。そうあのデイヴ・ケリーとのケリー兄弟のトニーが担当していたのでした。あまり表に出てはいなかったかもしれないけれど、「ジャパンスプラッシュ」はレゲエ好きの思い入れを詰め込んだ拘りのイヴェントだったのです。拘りのイヴェントとして、93年はガーネット・シルクを呼びたかったのです。92、3年の“ルーツ回帰”というトレンドを牽引したのがガーネット・シルクとトニー・レベルの2人だったことに異論を挟む人は少ないでしょうが、そのうちトニー・レベルはすでに91年に「ジャパンスプラッシュ」で呼んでいましたから、シルクのことを何としても欲しかったのです。


 さて、シルクやレベルが牽引した“ルーツ回帰”ですが、サウンド面でのレゲエ、ロック・ステディ回帰のトレンドはもう少し前から始まっていたというのがボクの認識です。70年代をほぼルーツ一色で駆け抜けたジャマイカ。70年代の末になりスラックネスDJの登場などリリック面などの内なる質的変化はあったけれど、ジャマイカ外からみていると、レゲエの音を大きく動かしていったのはジャマイカのアーティストのジャマイカ外でのメジャー・レコード会社との仕事であるように見えていました。その筆頭がボブ・マーリーやサード・ワールドであり、スライ&ロビーのコンパス・ポイントでの仕事だったりしました。バハマのナッソーにあるコンパス・ポイントは、アイランドのクリス・ブラックウェルがリゾート開発を手がけた場所で、そこにアイランドはスタジオを所有していました。70年代末から80年代初頭、アイランドはそのスタジオで数多くの名作をものにします。トム・トム・クラブやグレイス・ジョーンズ、ロバート・パーマー、ウォリー・バダルーといったアイランドの看板アーティストのみならず、コンパス・ポイントは時代の音を生み出すスタジオとして一世を風靡しました。 そこのスタジオで貢献したのがスライ&ロビーを中心としたジャマイカのミュージシャン達であり、スティーヴン・スタンレーなどのエンジニアでした。

 このようにジャマイカのアーティスト達は他流試合によってサウンドの変化を生み出していましたが、ジャマイカ国内の音楽状況というのは、85年の初のデジタル・リディムとされる[スレンテン]以降の打ち込み時代の到来まで大きくは変化しなかったのです。しかし、打ち込み時代の到来で、ジャマイカ人のユニークネスはいかんなく発揮されます。ナンジャコレ?、というリズムが続々と生み出され、安価な機材でも作れてしまうリズム・トラックは数多くのトラックメイカーを生み出していきます。そのトレンドは80年代いっぱい続きますが、90年代に入ると徐々に、打ち込みながらも古き良き時代のレゲエを復活させようというトレンドが見え始めます。

 その代表的な例がスティーリー&クリーヴィによる『PLAYS STUDIO ONE VINTAGE』であるし、フレディ・マグレガー『SINGS JAMAICAN CLASSICS』のシリーズですが、90年代になって頭角を現した〈ペントハウス〉と 〈デジタル・B〉という2つのレーベルが、古いリズムの丁寧なリメイクとこだわりのサウンドにより人気を獲得したのも原点復帰トレンドのひとつであったというのがボクの基本認識です。 〈ジャミーズ〉で経験を積んだエンジニア、プロデューサーの〈デジタル・B〉のボビー・ディクソンと〈ペントハウス〉の音を担当していたデイヴ・ケリーがレゲエ・シーンの中心に座り、その周辺の重要レーベルとして〈エクスターミネーター〉や〈ビッグ・シップ〉がその存在感を発揮するようになっていったのです。古いレゲエを蘇らせるというトレンドは、主役でもあるアーティストの原点回帰の流れをも呼びます。その中心がガーネット・シルクやトニー・レベルだったというのがボクの肌で感じた感覚です。

 シルクやレベルはシーンをリードはしましたが、彼らだけでリードできたのではないのです。レゲエ・リズムのデジタル化、打ち込み化という実にドラスティックに変化し突き進んできたジャマイカ音楽シーンの揺り戻しこそが90年代初頭のルーツ・ブームの端緒でした。しかし、そこから大きなルーツ・ブームのトレンドへとなったのには、レベル、シルクのみならず、ブジュやケイプルトンのラスタへの転身、ルシアーノ、アンソニー・Bの台頭など様々な要素が重なり大きなルーツ・ブームへと結びついていったのです。


 そんな中でガーネット・シルクは、トニー・レベルやエヴァートン・ブレンダー、ユートン・グリーン、カルチャ・ノックス(ピーター・トッシュと共に殺されたドレッドロックス・フリー・アイの息子)といった仲間のような存在はあったけれど、孤高の存在でした。そのラスタへの傾倒やストイックさというのは別格だったように思います。彼のことを認識し始めた初期の頃というのは、ラスタ系のシンガーであることは認識していたけれどもその人物像をつかみかねていました。しかし、徐々彼自身のことが伝わるにつれ、ほかの凡百のラスタ系アーティストとは一線を画す様子がわかってきました。「ボブ・マーリーの再来」という陳腐なコピーは、シルクのキャラクターを表現するのにふさわしいとは全く思わなかったけれど、多くのラスタに囲まれて生活していたシルクのその孤高の存在感、カリスマ性はマーリーと共通するところがあるのかもしれない・・・と。

 92年頃から頭角を現し、94年の12月に事故死。実働3年ほど。そのうち93年の夏前から94年の頭ぐらいはほぼ活動休止状態でした。その活動休止時期に来日したというのも今思うと不思議だけれど、その活動休止期を差し引いた実働3年のうちに、シルクは数多くの作品を残しています。


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スティング'94「Togetherness」/STING'94
スティング'94「Togetherness」

『KILLAMANJARO REMEMBERS GARNETT SILK』のフライヤー
『KILLAMANJARO REMEMBERS GARNETT SILK』のフライヤー

『KILLAMANJARO REMEMBERS GARNETT SILK』
『KILLAMANJARO REMEMBERS GARNETT SILK』

 彼の死は1994年12月10日。彼の母の家に滞在中、ガスが爆発したことによるとされています。彼の死の頃、キングストンの町はシルクも出演予定だった年末恒例、ボクシング・デーの12月26日に開催されるレゲエ・コンサート、「スティング」のポスターで賑わっていた。その年のスティングのテーマは「Togetherness(団結)」。シャバとニンジャの対決に代表されるように、誰と誰がヤりあった・・・、なんて話題が恒例のスティング。その年のテーマが「Togetherness」だったなんて誰が信じられるでしょうか? あの「スティング」がそんなモードになるほど、ルーツ・ブーム、ラスタ・ブームは盛り上がっていたのです。その年のポスターは、「Togetherness」のテーマのもと、ユートン・グリーン、ガーネット・シルク、トニー・レベル、ルシアーノ、ケイプルトンの5人が並ぶというデザインでした。事前からただでさえラスタ・ムードが高かった94年の「スティング」は、開催2週間前のシルクの死によって、完全にシルク追悼モードになり、異例の「スティング」となったのでした。

 彼の死後のルーツ〜ラスタの勢いはシルクの存在があるころよりは減じたとはいえ、それでもシズラやアントニー・Bなど、多くのラスタ系のアーティストが活躍し一定の人気を得てきました。シルクの人気は死後も続きました。彼の死後は、彼が生前に残した未発表音源が7インチで出るたびにファンは驚喜したものでした。また、「米アトランティックと契約し録音が進行中だ」と噂されていたアルバムがどうなるかなど彼に関する話題には当分の間は死後も事欠かなかったのです。


 そんな彼の死後、もっとも注目を集めたのがサウンドシステム、キラマンジャロのガーネット・シルク、スペシャル集『KILLAMANJARO REMEMBERS GARNETT SILK』でした。それまでもシステム用にとられたスペシャル(ダブプレート)が商品化されたことがなかったわけではありません。しかし、特定のアーティストの特定のサウンドシステムへの吹き込みが公式に発売されたのは世界で初めてだったのではないでしょうか? この作品は英ラフガイド社から発刊された『Reggae 100 Essential CDs』のCD100選にも選ばれています。キラマンジャロのリッキー・トゥルーパーという個性とシルクとの友情の証というといささかクサい表現ですが、日本でのみ発売されたこのCDが投げかけた波紋は大きく、このCDはブート(海賊盤)が世界中に出回るという現象も巻き起こしました。実はこの作品、24×7 RECORDSの八幡さんの以前の会社でのナイス・ワークでした。ちなみにこのCDのジャケット写真を撮影したのは日本人カメラマンの石田昌隆さんで、93年の来日時に撮影されたもの。このシルクの愁いがうまく表現された写真は、世界中のシルク・ファンの中で人気の高い写真です。

 結局、アトランティックとの契約により、クライヴ・ハントが主導して録音された音源は、2000年に既発音源と共に収められた『THE DEFINITIVE COLLECTION』として発表され、日の目を見ましたが、やはり、彼の存命中にメジャーからの新作として聴きたかったというのが本音でした。


 ガーネット・シルクと共に92年から95年に頭角を現したアーティストでもっとも印象に残っていると先に書いたブジュ・バントン。最近ではコケイン取引に関わったのではないかと米警察に拘留されるなど(つい先頃釈放)、今後の動向が注目されているところですが、92年の「ジャパンスプラッシュ」ではおどおどとステージをつとめていました。しかし、その後もヒットを連発し、すぐにメジャーと契約。93年にはウェイン・ワンダーと日本国中をツアーしました。ツアー中に友人のパンヘッドの訃報を知ったブジュが日本で書き下ろしたのが「Murderer」だというのは有名な話です。ブジュがメジャー初のアルバム『VOICE OF JAMAICA』を出したあたりは、まだブジュ自身は今のようにラスタ化していません。ブジュにとってのラスタへの道、コンシャスネスへの一歩目は日本でのツアー中だったというのは、決して偶然ではないように思うのです。ジャマイカ外での長いツアー中に、自分の音楽、自分たちの音楽を客観視するという視点が芽生え、そこから自身の進むべき道が見えたのではないかと。日本で書いた「Murderer」こそ、転身の一歩目であり、その一歩が95年の名作『'TIL SHILOH』へと続いていくきっかけとなったのではないかと。

 声は野太いけれど、ジャマイカではかわいいルックスのアイドル路線だったブジュのコンシャス路線への転身(転進)は、ルーツ〜ラスタ系のアーティストの大きな流れを作り、『'TIL SHILOH』は、70年代にボブ・マーリーが蒔いた種で育った世代にも受け止められるダンスホール世代のルーツ作品としてのメルクマルとなりました。シャバ・ランクスやスーパー・キャットがヒップ・ホップという同世代の音楽的な親戚にアプローチし、人気を得たのに対し、『'TIL SHILOH』は、ダンスホールのデジタル化で断絶したレゲエのミッシング・リンクをつなげたという意味でもその存在は大きいものです。ダンスホールのアルバムはヒップ・ホップとレゲエのファンにしかアプローチできないと思われていたものを、かつてマーリーらが種を蒔いた畑でも作品によっては、きちんとアプローチできることをある意味証明した作品ともいえるのです。

 重ねて書きますが、ガーネット・シルクの存在とブジュの転身は、ルーツ・ブームのエンジンでした。強い二つのエンジンを得て、ルーツ・ブームは拡大し、このトレンドは現在でも一定の勢力となり、人気を得ています。しかし、ジャマイカはルーツ一辺倒になったのではなく、ルーツ・ブームの裏でビーニ・マンやバウンティ・キラーそしてエレファント・マンが人気を獲得していたように、打ち込みレゲエ以降のトレンドは確実に存在し、進化もしていたのです。今振り返ると、あのルーツ・ブーム、ラスタ・ブームというのは、ダンスホールの多様化に大きな貢献をしたという言い方もできるのですが、実はダンスホールのレゲエ化でもあったのです。「レゲエ化」などと書くとダンスホールはレゲエではなかったかのような書き方のように思われるかもしれませんが、そういう意味ではありません。正確に言うならば、デジタル・エイジのダンスホールが過去のジャマイカの音楽ときちんと対峙したことにより、(些か頭の固い)古いレゲエ・ファンからは「あんなのレゲエではない」と揶揄されていたデジタル時代のダンスホールをレゲエの流れの中に位置づけるという大きな意味があったのだと思うのです。


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ガーネット・シルク
『REGGAE ANTHOLOGY - GARNET SILK』ブックレットより
日本公演の写真も掲載。

REGGAE ANTHOLOGY - GARNET SILK : MUSIC IS THE ROD
『REGGAE ANTHOLOGY - GARNET SILK : MUSIC IS THE ROD』
VP RECORDS /VP1693 /2CD /IMPORTS

 最後にVP RECORDSからの『REGGAE ANTHOLOGY - GARNET SILK : MUSIC IS THE ROD』のクレジットをみながら気づいたことをひとつだけ蛇足的に書いておきます。ガーネット・シルクというアーティストは、ダンスホール世代のレゲエ・シンガーとしては、非常に稀なことにカヴァーを歌うことが少なかったシンガーでした。このあたりも彼が人気を得る前の人気シンガー、サンチェスやウェイン・ワンダーとの大きな違いでもあります。このVP RECORDS盤のクレジットをみても、ほとんどの曲がシルクの本名であるガーネット・スミス作となっています。それ以外の名前がクレジットされている場合は、プロデューサーもしくはトラック制作者、共作者です。クレジットをみていると、A・ロチェスターの名前がところどころにみられますが、彼はシルクとソングライティングのみならず公私ともに親密な関係を持っていた人物。ロチェスターについては、VP RECORDS盤のブックレットに写真入りで紹介されています。

 シルクによるカヴァーというとホレス・アンディの「Skylarking」のカヴァーが浮かぶぐらいでほとんど無いように思いますが、実は、このVP RECORDS盤にも、作者としてガーネット・スミスとコートニー・コール作とクレジットされているもののカヴァー曲があります。シルクの代表曲である「Mama」がそうです。オリジナルはアメリカのソウル・グループ、ザ・チェアマン・オブ・ザ・ボードの1970年のヒット「Patches」。オリジナルはママではなく、パパの曲だったのです。作者のジェネラル・ジョンソンは、さる10月に他界したばかりです。「Patches」は、ザ・チェアマン・オブ・ザ・ボードの録音も有名ですが、クラレンス・カーターのヴァージョンがさらに有名かもしれません。オリジナルではないとはいえ、「Mama」はガーネット・シルクの代表曲のひとつとして、これからも聞き続けられるでしょう。母を愛し、母と共に事故でなくなったガーネット・シルクの心性を表している曲はこの曲以外にあり得ないと思うのです。


 さて、この2枚組VP RECORDSP盤は、主要なヒット曲のほとんどが収録されていますし、ガーネット・シルクに興味を持った人ならば最初に買うべきCDです。英文のブックレットも彼についてきちんとまとめていますし、関係者の証言もあります。選曲にも工夫がされています。ボクが大好きなシルクの曲に〈ペントハウス〉からのジェネラル・リディムを使った「Lion Heart」があります。この曲では、シルクが途中でDJスタイルを披露する下りがあるのですが、VP RECORDS盤ではこの曲に続いてシンガーとして頭角を現す前はビンボ(BIMBO)という名前でDJをしていたシルクのDJ時代のスキルを楽しめる「See Bimbo Ya」が収録されているなど、選曲にもニヤリとさせられます。ヒット曲を単に並べるだけではない良いベスト盤です。


 ガーネット・シルクの17回忌を迎える2010年12月10日を機会に、90年代のジャマイカのレゲエの流れを変える原動力ともなり、28歳で早世したガーネット・シルクという個性にぜひ浸っていただきたいと願います。


 今回も原稿用紙30枚近く書いてしまいました。依頼では各回400字で12、3枚のはずなのですが、ついつい。今回の連載は、これまでのものとかなりスタイルが異なりますので、楽しく読んでいただけたのか不安でもありますが、2011年もこの連載を愉しんでいただけると幸いです。それでは、皆様良いお年を。


藤川 毅 [ふじかわたけし]
1964年鹿児島市生まれ。
高校卒業後、大学進学のため上京。
大学在学中より音楽関係の仕事をスタートし、『レゲエ・マガジン』の編集長など歴任するも、思うところあり、1996年帰郷。
以来、鹿児島を拠点に会社経営をしつつ、執筆活動などを続ける。
趣味は、自転車(コルナゴ乗り)と読書、もちろん音楽。
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