STEPHEN McGREGOR ↑写真をクリックすると拡大表示します。

 えー、だらだら企画の「JUST MY IMAGINATION」ですけど、チト久し振りの更新かな?

 亡くなったALTON ELLISのコトを書こうと思っているうちに、BYRON LEEも亡くって、それらの追悼記事とかをあちこちで読ませて頂いているうちに、たくさん刷り込まさせ過ぎて、「チト他のコトにしよ」とか思ったりしてました。

 で、今回はVYBZ KARTELの新作『THE TEACHER'S BACK』がリリースとかがあって、それで「VYBZ KARTELのコト」、では無くて、その作品をプロデュースしたSTEPHEN McGREGORのコトにしました。VYBZ KARTELの作品で日々連絡を取り合っているうちに、「STEPHENとの仕事はまだまだココからだけど、付き合いは長いなぁ」とか思ったのもある。で、「いつからだっけ?」とか思い直したりした感じ。

 まっ、現在飛ぶ鳥を落す勢いのSTEPHENですけど、まだまだ日本で言えば未成年。今回の作品の契約時にも、リリース元のビクターさんからも最初に「未成年とは契約出来ませんぜ」と言われちゃったりしましたけど、自分の仕事関係者の中では一番年下。

 そんで、自分とSTEPHENとの出会いは、父親であるFREDDIE McGREGORを通して。自分がFREDDIEと彼のレーベルである〈BIG SHIP〉とビジネスを開始したのは93年からで、それ以来〈BIG SHIP〉ファミリーとの付き合いが始まったんですけど、STEPHENと初めて会ったのは、多分97年の夏でした。だから7才とか8才だったのかな? まだホントの子供の時。

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 97年は〈BIG SHIP〉からの作品をたくさんリリースしました。年のはじめには、FREDDIEの実娘であるYESHEMABETHのデビュー盤『LET'S TALK ABOUT IT』、夏前にはFREDDIEの『MASTERPIECE』、あとPAPA SANの『YOURS & MINE』、WAILING SOULSの『TENSION』とかを日本盤としてまとめてリリースしました。で、こんだけまとめてリリースしたのには理由があって、これらのアーティストが全員まとめてその夏に開催される「REGGAE JAPANSPLASH 97」で来日することになってたから。リリースを決めたのが先か、来日が決まったのが先だったか覚えていないけど、主催のタキオンさんとかなりタイトに組んで仕込んだハズ。

 で、皆さんまとめて来日したんですけど、FREDDIEは彼ら〈BIG SHIP〉のアーティスト達だけではなく、自分の家族もどーんと連れて来たのでした。全部FREDDIEの自腹。「家族旅行かよ?」とも思いましたけど、FREDDIEは「家族に日本を見せたかったんだよ。特に子供達にはこういうジャマイカとは異なった文化 の国を教えたかったんだよ」とのこと。まっ、それを「家族旅行」とも言う気もするけど、とりあえず、その学習しに来た子供達として、現在のCHINOとなるDANIEL、現在は〈BIG SHIP〉の裏方のMICAH、そんで現在の「天才」で〈BIG SHIP〉の顔役となっているSTEPHENもやって来たのでした。

 その時に初めてSTEPHENと会いました。FREDDIEのカミさんと言うか、お母さんに手を引かれてて、とってもシャイでしたな。それは今でもあまり変わらんけど。あと、この年の「REGGAE JAPANSPLASH 97」には、LUCIANO、SIZZLA、DEAN FRASER、CHAKA DEMUS & PLIERSとかたーくさん居ましたな。そんな濃いメンツの中でしたので、余計にSTEPHENが浮きまくってました。

 で、当時はのんびりしたもので、3週間ぐらい全員滞在していたんです。全国各地でショーをするんですけど、週末にしかショーが入って無くて、基本的に月〜金は全員ホリデー。で、自分もホントならショーとか仕事の現場だけ一緒に居たら良いんですけど、全日程同行して、会社に行くことも無く、地方とかで連中と一緒に毎日遊んでました。酷い話です。現在なら許されないっす。ただ、そうしたアーティスト達との時間も貴重で重要なコトと考えていましたので、会社に行くことよりも、そちらを優先させてもらいました。以前の会社の皆さん、スイマセン。ええ、出張手当まで頂いてましたよん。

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 で、自分の実家のある名古屋にも5日間ぐらい滞在してたのですけど、その時にはPAPA SANと、そのマネージャーと称するちっとも働かんカミさん夫婦と一緒にスーパーで食材を買い出しして、自分の実家で一緒に料理したりもしました。連日のホテル生活でチト食事に不自由していた様子だったので、連れ出したハズです。で、PAPA SANのカミさんは仕事はサッパリでしたけど、料理は上手で色々なジャマイカ飯を作ってくれました。同席してた自分の両親達も大喜び。「PAPA SANって変な名前ねぇ〜。呼ぶ時は『PAPA SANさん』なの?」とかアホな子の親らしく、両親がハシャギいたのを思い出しますし、PAPA SANが日本の家とか、特に畳や敷き布団とかに関心を示してたのも思い出します。

 で、そのPAPA SAN夫婦とホテルに実家から戻った時に、ホテルのロビーでつまらなそうにしてるガキどもが。ええ、DANIEL a.k.a. CHINO、MICAH、STEPHENが「退屈だよ〜。毎日やることないよ〜」と。パパは部屋でCHAKA DEMUSとかとドミノに夢中で、ガキどもを放ったらかし。毎日、大人達と一緒でつまんなかった様子。

 それを見て、チト可哀想になって、「よし、ガキども。どっか行こうぜ」となって、翌日に動物園に行くことに。「よーし、明日の×時にロビー集合!」で、ガキどもは驚喜。ええ、それで良ろしい。

 で、翌日の×時にロビーに行ったら、アララだよ。ガキども3人だけかと思ってたら、YESHEMABETHとそのねーちゃん、FREDDIEのカミさん、PAPA SAN 夫婦再び、その他色々が集合中。全部で20人ぐらい。全員「動物園に行く〜」とのこと。FREDDIEは見送りだけ。

 で、その人数だと、とてもタクシーなんかじゃ収まらないから、「うーむ、地下鉄で行くしかないがや」と名古屋駅から東山線に。切符を買う時から大騒ぎでうるさい。でも、地下鉄に乗る時に「え〜、日本では電車とかの中ではジャマイカ人みたいに大声で話さんから全員ヨロシク」とか言ったら、ホントに誰も一切話さないのが可愛い。このまま全員誘拐出来そうなぐらい素直。それで良ろしい。いつもそうあってくれ。

 で、東山動物園に到着したら、激暑だったこともあってか、他には誰も客が居ない。切符売場も閑散。「えっと、大人が何人で、子供が何人で〜」とオタオタしてたら、係のオジサンが「もうええよ。入ってって」と全員ご招待で入れてくれた。流石は名古屋マッシヴ。ラヴリー、ホーム・タウン。どえりゃー、粋だがや。

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 で、そこからはガキどもを中心に大ハシャギで動物園をグルグル。ペンギンを見つけると「ペンギン!」、象を見つけると「象!」と全員で絶叫。見れば分かるんだけど、叫ばずにはいられないのか。まっ、とにかく全員大盛り上がりで、もう「どっちが珍獣だか分からん」と大爆笑。そんで「ガラスを叩かないで下さい」と書いてあったコアラの館では、勿論、全員ガラスを叩きまくりで、「コアラ、起きろ!」と全員で絶叫。ええ、勿論、係員が飛んで来て叱られた。こういう時は離れて知らんぷりが正解。

 ただ、さすがは本場のレゲエ集団なので、それらしい行動も。

 PAPA SANがガキどもに「ライオン見たことあるか? 親父がラスタならライオンぐらい見ておかんとな」と行くことに。ただ、STEPHENは「え〜、怖いよ〜。食べられちゃうよ〜」とその時点で半泣き。ライオンの檻の前で、PAPA SANがライオンに「こっち来い!」と呼ぼうとすると、離れた場所からSTEPHENは「やめて〜、食べられる〜」と本泣き。PAPA SANは「ラスタの子がそれでどーする? FREDDIEなら逆にライオン喰ってるぜ」と大笑い。確かにそうかも。

 で、続けてトラの檻に。相変わらずSTEPHENは「怖い〜」と泣いてるけど、ココでPAPA SANはDJをいきなり披露。ものまねしながら歌ったのはTIGERのチューン。そう、ちょうどその年にTIGERがバイク事故で大怪我してしまっていたので、PAPA SANは「回復を祈って」とTIGERのチューンを即興でDJしてみせたのでした。他は全員無視してたけど、自分は感動したよ。良いもの見たよ。レゲエだよ。

 まっ、そんな感じで延々何時間も広い動物園をパトロール。ただ、あまりに激暑で、途中でクタクタに。売店を見つけて、全員で貸切で一休みすることに。ただ、ココでも大変。全員勝手に買い物してたら、アチコチから「なんじゃー、コレー!」とトラブル続出。「ポテトだと思ったのに〜」とたこ焼き買っちゃったYESHEMABETH、「ジュースだと思ったのに〜」と酎ハイ買っちゃったPAPA SAN、そんでSTEPHENはまたしても泣きべそなのでチェックしたら、「チョコレートだと思ったのに〜」とアイスのあずきバーを持ってた。大変です。こういう時はホントに大変です。金払ったものが、思い通りじゃないと、ジャマイカ人は大変です。喰いかけのものを平気で店員に返品しようとします。あー、うるさい。

 で、その後には併設されている遊園地にも行って、PAPA SANとかはジェット・コースターで絶叫していたんですけど、一人STEPHENはレールの敷かれたお子ちゃま用のゴーカートを何度も繰り返し乗ってて、なんかチト可愛かった。あと、なんか「楽しそう」にしててくれたのが、連れて行った者としては嬉しかった。子供ってどう扱って良いか分からんから、楽しそうにしているのを見ると安心するんだな。

 でも、流石は将来の「天才」ですよ、STEPHENは。確かに泣き虫君ではあったけど、ただのガキでは無かった。ただ「家族旅行」で来ただけでも無かった。ええ、実はもうこの時点で既に音楽活動してまして、この時の「REGGAE JAPANSPLASH 97」でも、FREDDIEのパートで飛び入りでステージに立って歌ってた。万単位の客の前でビビることなく、ご愛嬌もあったけどボスさせてた。で、FREDDIEも「どうよ、スゲえ子だろ?」と皆に自慢してたな。チト「親バカ」にも見えたけど、FREDDIEも7才でマイク握り始めたのもあったろうし、その時には現在のCHINOも「バスケット・ボール選手になる」とか、MICAHも「俺もマイケル・ジョーダンになる」とか言ってて音楽に目覚めてなかったから、自分を習ってマイクを握ってくれてたのが余計に可愛かったのかもネ。

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 そんで、この後に、STEPHENはFREDDIEのサポートもあって、ジャマイカでFREDDIEと共にCMに出たり、7インチをリリースしたり、チト「お子ちゃまスター」として活動するんだけど、ある時期からは、FREDDIE曰く「知らん間に機材の使い方を覚えて、自分で曲とか作る様になってった」で、アーティストではなくて、裏方の道に進んでいくことになる。昼間は学校に通いながら。

 で、そんな出会いの時から、今日までSTEPHENとは付き合い続けているんだけど、現在の「天才」になるまでの間に何度も会ったりしている時は、「オイ、学校行ってのか?」とか、「ギャル・デムにモテてるか?」とか、クリクリの頭を撫でながらイジってたけど、なんか自分の中では突然「天才」になっちゃった感じで、いつからかは「ヨロシクお願いしますよ、STEPHEN君」だよ。偉くなったもんだ、立派になったもんだ。ああ、素晴らしいよ。同じ時間を与えられていたのに、なーんも成長しなかった自分が哀しいよ。

 まっ、でも、いくら「天才」「ヒット・メーカー」になっても、ある意味STEPHENは子供の時から変わりませんな。あの動物園の時の印象とそうは変わらん。いつも大人連中に囲まれていたせいか、いつも謙虚だし、いつもちゃんと人の話に耳を傾ける。で、そうした周りの人達からの愛情を受けて育ったからか、人にも優しい。でも、ただ「良い子」だけではなくて、どこかいつもマイ・ペースで、我関せずな強さもあって、自分の世界を持っているようでもある。

 音楽的な部分はどうやって養ったのかは分からない。ただ、CHINOも「FREDDIEを通じて、シーンの大御所や、トップ・スター達を間近に見て育ったことでレゲエを学んだ。あとFREDDIEとともに世界中を見て回ったことで、ジャマイカに無い感覚を得られたと思う」と言ってたけど、STEPHENも同じように育ったから、きっと共通している部分は多いと思う。で、確かに「天才」。ただ、それを育てたのは、FREDDIEと〈BIG SHIP〉ファミリーを中心とした家族やアーティスト/ミュージシャン達でもあると思う。そうした環境や経験だけでなく、そこから何かを学び、気付き、ちゃんと自分のモノとして、自分の才能や個性に転換出来たのはSTEPHENの努力だけど、生まれながらの天才だったわけではないと思う。うん、FREDDIEが「学ばせたい」と日本に連れて来たことにもなんか意味はあったハズ。で、あの動物園とかも意味があったんだと、恩着せがましく言っとく。

 最近、FREDDIEと話す時には、STEPHENの話題は避けられない。まっ、当然と言えば当然。で、少し前に話した時に、FREDDIEが「うん、STEPHENもなんか良い感じで頑張ってるな」とこちらの「スゴいよね」を軽く流した後に、「だから、そろそろまた自分のコトを頑張ろうと思うんだ。自分の活動のコトだけを考えても良い頃だと思うんだ」とかボソっと言うのを聞いて、なんかグッときた。その言葉にFREDDIEの華やかで輝かしくも見える長いキャリアの裏には、様々な想いや格闘が存在していたことを改めて理解した。

 FREDDIEも天才ではなくて、7才の時にCLARENDONIANSのメンバーに手を引かれて、〈STUDIO ONE〉に赴き、COXONE DODDのもとで、BOB MARLEYやALTON ELLISやLEROY SIBBLES等の大人達に囲まれて、それを見て学び、努力して自分のポジションを手に入れた。

 現在のビッグ・シップ・スタジオを建設し始めたのは「レゲエ・ジャパンスプラッシュ 97」の頃。その時に、「ココを〈STUDIO ONE〉のスタジオみたいなヴァイブスにする」とFREDDIEは言っていた。その時は「〈STUDIO ONE〉みたいにたくさんのヒットが生まれるスタジオにする」と受け止めたけど、そういう意味だけではなかったことが、現在になって分かる。「自分が育った〈STUDIO ONE〉みたいに、人を育てる場にしたい」という意味も含まれていた。

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 スタジオ建設からしばらくは、このスタジオからは大きなヒットも生まれず、運営していくために主となるはずのFREDDIEは数多くの海外公演をこなし、その場を離れざるを得なく、決して順調でも楽勝でもなかった。ただ、そうしてでもFREDDIEが奮闘し続けてきた中で、息子達はスタジオで育ち、特にSTEPHENは現在の立ち位置までに成長した。海外ツアー先で得たギャラをFREDDIEは機材に変えて、スタジオに持ち帰り、それをSTEPHENは独学で自分の「音」に変えていった。そうした事実や背景を知っていれば、先のFREDDIEの発言はグッと心に染みる。「男」なら分かるハズ。ギャル・デムは「意味分かんない」で良し。

 まっ、これまでもFREDDIEには、本人とその作品を通して色々なコトを教えられたけど、STEPHENを現在にまで導いたFREDDIEの生き方にもまた教えられる。STEPHENもまたFREDDIEの一つのだネ。うん、FREDDIEはやっぱスゴいわ。STEPHENとFREDDIEがガッチリと組んだ親子作品を作りたいな。

 えー、なんかSTEPHENの話がFREDDIEになっちゃった。なんかこのままにしておきます。スイマセン。

 しかし、長いな。

八幡浩司(24×7 RECORDS., INC.)

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