1994年に「PACHINCO MAN」、日本の音楽シーンの初のダンスホール・ヒット曲でブレイクを果たして以降、現在も大阪を拠点にソロのレゲエDeeJayとして、またVADER、ARM STRONGとのダンスホール・ユニットのラガラボMUSIQの一員としても日本のレゲエ・シーンで活躍し続けるBOOGIE MANはDRAGON TURBOと最も密接な存在だった。

BOOGIE MAN 「ターボーは先輩であり、相方であり、相棒でしたけど、自分にとっては友達でした」ー。

 自分は14歳からレゲエDeeJayを始めていたんですけど、初めてターボー(DRAGON TURBO)を知ったのは16歳ぐらいの時かな。ルーツ・ロッカーズというルーツ・ロック・バンドのライヴを何度か見に行っていて、そのバンドでヴォーカルとギター、たまにドラム叩いてる人として知ったんです。多分その当時から「DRAGON TURBO」という名前やったと思います。

 その一年後ぐらいにセント・アンズ(大阪・南堀江に存在したレゲエ・クラブ)が出来て、そこでよう会うようになったんです。セント・アンズでは週末にオープン・マイクと言うか、歌える奴は勝手にDJブースの中に入って歌えたんです。ただ、かなり勇気がある奴でないと入れない雰囲気やったんですけど、自分は若かったし、アホやったからガンガン入ってマイク握って歌っていたんですよ。

 それを見てたターボーの方から「自分オモロイな」って話しかけて来てくれて、それからですね、それからはずっと一緒でした。それからはサウンド・システムでレコードの裏面に合わせて自分がDeeJay、ターボーがシンガーのコンビのように活動していくようになりました。いつも半分アドリブ、半分は決めて二人で一緒に歌ってましたね。

 そこにDeeJayのDICKEY BENも一緒になることが多くなって、毎週土曜日は必ずその三人で一緒に演るようになっていったんです。それを見ていたセント・アンズのオーナーのボス(紀平氏)から「こんなに三人で一緒に演るんやったらグループとして演れや」と言われて出来たんがブレイン・ウォッシュ・クルーでした。DICKEY BENが背が高くて自分が低かったので、その頃は「LITTLE BOOGIE MAN」って名乗るようになってました。

 「PACHINCO MAN」がヒットした時が23とか24歳ぐらいでしたけど、そこからもターボーとはずっと一緒でした。一緒に全国のあちこちのイヴェントに出演したりしてました。

 あと、ターボーは管楽器以外の楽器はなんでも出来た人で、自分が「こんな感じのベースで、こんな感じのドラムで」と口ずさんだりイメージを伝えたものをすぐに楽器で表現してみせることが出来た人で、それは本当に凄かったです。最初はそれに衝撃を受けて、途中からはそれが当たり前になってましたけど、ずっと頼っていた存在でした。当時にはそんなにレゲエのトラック・メーカーもいなかったですし、自分にとってはシンガーとしてだけではなく曲を制作していく上で欠かせない存在でした。

 ターボーはそれ以外にもシャンプーズというダンスホール・バンド、メンバーはルーツ・ロッカーズの人達やったんですけど、そうした活動もして自分だけではなく色んなアーティストのバックで演奏したりもしていました。そうしたシンガー以外での活動でも現在につながる大阪のレゲエ・シーンの発展みたいのに残した功績は大きいと思います。決して誰でもが知っている存在ではなかったのかもしれないですけど、当時はそこまでレゲエがまだ知られていなかった時代だったのもありますけど、大阪でレゲエを聴いたりクラブに通っている人ならみんな知っているような存在でした。

 とにかく優しい、超優しい人って印象ですよね。ターボーは自分より13歳年上だったんですけど、それでも友達として接してくれてました。それこそ自分も「ターボー」と呼んでタメ口で話してましたし、お互いの家にしょっちゅう遊びに行ってましたし、西成のターボーの家では奥さんにもよくしてもらってました。ターボーは先輩であり、相方であり、相棒でしたけど、自分にとっては友達でした。

 ターボーには子供もいて、奥さんからは「音楽は35歳までにして」と言われていたようでしたけど、「もう過ぎてもうたわ、アハハ」と笑っていましたね。自分も「40まではイケるでしょ」なんて言ったりしてね。

 そうですね、ターボーのアーティスト写真がほとんど無かったり、CDのアートワークにも写真載せなかったりしたのもそれも関係していたと思います。ターボーは家族を養うために昼間にも仕事をしていたんですけど、それも公務員で街路樹の整備とかをするような仕事やったと思うんですけど、当時は現在と違って副業みたいなのが許されるような雰囲気ではなくて、そうした音楽活動をやっていることがバレてその仕事を無くさないようにしていたんだと思います、写真撮られる時もサングラスかけたりしてね。それもターボーがそこまで知られるようにならなかった理由になったかもしれないです。

 うーん、どうやろ? なんか、ずっと夢の中にいるような感じでしたね・・、そうですね、突然でしたしね・・、自分の前から居なくなったのも・・。

 

 「わすれておしまい」ですか? よう覚えていますよ。あれはエリさんですよ。

 自分も「わすれておしまい」のオリジナルはよう聴いていたんですよ、それが誰が歌っているとかは知らずに。自分は若い時からサーフィンをしていたんですけど、当時は現在みたいにネットでその日の波情報を調べられなくて、毎回電話で調べていたんですよ、有料の専用の番号に電話すると今日はどこどこの波はどんな感じとか聴けたんですよ。で、その波情報を当時に電話で喋っていたのがマーキーさん(大阪を拠点に活躍するラジオDJ・DJマーキー)で、その喋りのバックに流れていたのが「わすれておしまい」やったんですよ。もうそれで何回も聴いてたんですよ。それがケン田村さんの曲って知ったのは後からでしたけど。

 で、自分は「PACHINCO MAN」の時からマーキーさんの所属事務所にお世話になることになって、そこを通じてテイチク・レコードと契約してCDをリリースしていくことになったんですけど、ターボーも同じようになったんです。

 で、ターボーも95年にテイチク・レコードからCDを出すことになった時に当時のその事務所の社長だったエリさん(谷口恵理)がターボーを呼んで、「ターボー、私の好きな曲があるから歌ってくれ」って言ったのが「わすれておしまい」やったんですよ、あのマーキーさんの波情報のバックに流れていた曲やったんですよ。そうそう、だからきっかけはエリさん。もしかたら波情報のバックもそうやったかはわからないですけど、とにかくターボーの「わすれておしまい」のきっかけはエリさんです。ターボーもサーフィンしてたと思うし、オリジナルは知っていたと思いますけど、ターボーは「エリさんの頼みならやろか」と歌うことにしたんですよ。それがシングルにもなって・・、そうですね、現在でも知られているのは確かにエリさんのおかげかもしれないですね(笑)。

 アルバム『WICKED DADDY』はほとんどターボーとヒロガス(田中宏和)っていうルーツ・ロッカーズ、シャンプーズのメンバーで制作されていると思います。自分はそんなに参加していないです。そのヒロカズも実はスゴい人でニンテンドーの有名なゲームのゲーム・ミュージックを作ったりしていたりする人で、ポケモンとかもそうだと思いますけど、とにかく天才でしたね。リリックもヒロカズがターボーと一緒に書いたりもしてたと思います。その二人でプロデュースしていた感じですね。

 ターボーですか・・、

 うーん・・、

 「ええ声」ですよね。

 

取材 : 7月11日・大阪 / 難波
テキスト : 八幡浩司 / 24×7 RECORDS

 

BOOGIE MAN
Twitter / X : @boogie_man_
Instagram : @boogie_man_

 

– MORE INFORMATION –


DRAGON TURBO
初配信記念

「わすれていけない – JAPANESE REGGAE FOUNDATION」
PLAYLIST(24×7 RECORDS選曲)公開 8/10更新
LINK

DRAGON TURBO SPECIAL
RYO the SKYWALKER
INTERVIEW
LINK

DRAGON TURBO SPECIAL
TAKAFIN (MIGHTY JAM ROCK)
INTERVIEW
LINK

DRAGON TURBO
「わすれておしまい」『WICKED DADDY』
配信案内
LINK

BOOGIE MAN Feat. DRAGON TURBO
「DAMN SWEET」
7インチ・レコード・再プレス&再販売決定
– 8/24更新

LINK

BOOGIE MAN
テイチク・レコード(1994〜1996)期
配信案内
LINK

 

 

latest

24x7 RECORDS 新着情報

releases

最新リリース情報