藤川毅のレゲエ虎の穴

レゲエ'82

 さて、そんな前段がありつつの、『レゲエ'82』だ。奥付には「82年2月発行」とある。しかし、巻頭記事が81年5月に亡くなったマーリーの追悼記事からスタートしていることからもわかるように雑誌の中身は“レゲエ'81”の趣だ。


 アイランドなどのメジャー・レーベルからリリースされているレゲエ作品やイギリス配給のレゲエ・レコード以外のレゲエのリリースはなかなか把握できなかった時代。そんな時代に、どんなレコードがあるのかを見ることが出来る雑誌が立ち上がったのは実に画期的なことだった。加藤さんが、雑誌が必要だと思ったのは、加藤さんの前任の店長だった松平さんが『スモール・タウン・トーク』というミニコミを通じて発信していたことを目の当たりに見ていたからだろうと思う。『レゲエ'82』や『サウンド・システム』は、加藤さんが私費で作っていた。もちろんレビューの対象となるレコードも加藤さんが自費で購入していたモノだった。


 『レゲエ'82』の原稿執筆者を見てみよう ー 三好伸一、工藤晴康、藤田正、高野裕子、多田美和子、藤川Q、高地明。アルバム評では、前掲の人以外に会田裕之、SHAMBI、高橋健太郎、外山恵一、中川五郎、矢口真、山本みどり、横尾義弘という名前を見ることが出来る。


 基本的には『ザ・ブルース』〜『ミュージック・マガジン』の流れ。レゲエ以外の評論もされていた故会田裕之や、後にタキオン〜『レゲエ・マガジン』入りした横尾義弘の名前もこの号から見ることが出来る。SHAMBIは、PJのクール・ラニングスのキーボード奏者だった人物。山本みどりは、訳詞家としても有名な山本安見の妹で、吉祥寺でナッティ・ドレッドというレゲエ専門店を開いていた。SHAMBI、高野裕子、山本みどり、藤川Q・・・は、ナッティ・ドレッド界隈の人・・・、というのは僕の勝手なイメージだけれど。


 現在、新宿のレゲエ・クラブOPENを運営されている工藤晴康は、当時は西荻窪でぎゃばんというレコード飲み屋を経営していた。工藤晴康の後は、弟の康治が店をやっていた。三好は東芝EMI(現EMI)がアイランドを取り扱っていたときの担当であり、ボブ・マーリーの日本の担当だった人物。矢口は、『レゲエ'82』の制作スタッフだった。中川五郎は今でも現役のシンガー・ソングライターとしても著名。外山恵一は、加藤さんと親しかったレゲエ好きのデザイナーの方だったと記憶している。


 ちなみに藤川Qとあるのは、藤川PAPA-Qなどの名前でレゲエに関する原稿を書かれている藤川理一のこと。良く小生と混同されるが別人であり、小生よりも年齢的に先輩にあたる。前掲の三好と親しく、ボブ・マーリーがアイランドからアルバムを出していた頃、リアルタイムでライナーを書かれるなどしていた日本のレゲエ執筆者の草分け的な存在だ。80年代前半に日本で刊行されるようになっていた『ジグザグ・イースト』でも健筆をふるっていた。『レゲエ'82』の奥付で「スペシャル・サンクス」として藤川Qの名前があり、誌面では、ON-Uと深く関わり、当時ニュー・ウェイヴ系アーティストの写真を多く撮っていたKISHI YAMAMOTO撮影の写真が『ジグザグ・イースト』経由でいくつか使われている。『ジグザグ・イースト』はKISHI YAMAMOTOが創刊した雑誌だった。


 高野裕子は、菅野和彦とレゲエの名曲の数々を翻訳した『ストリクトリー・ロッカーズ』を出版したことでも知られる人物。多田美和子は、80年代前半にダブ・ポエットの原稿を数多く書かれた女性ライター。当時、オク・オヌオラに直接手紙を書いたりして情報を得られていた。

 執筆者や内容を見ると、はじめて作る雑誌でもあり試行錯誤を見て取れる。執筆者もいわゆる『ザ・ブルース』〜『ミュージック・マガジン』系のライターからの流れもありつつ、新たな流れもできた。そんな印象のある『レゲエ'82』のスタートだ。


藤川毅のレゲエ虎の穴


 82年。それはレゲエにとって冬の時代の到来と考えられていたかもしれない。それはボブ・マーリーという巨星を失いレゲエはどこに向かうのか見えにくい時代だったからだが、そんな時代に立ち上がった『レゲエ'82』。Macやパソコンがあれば簡単に雑誌のようなモノができてしまう時代ではないから、大変な労力をさいていたことと思うが、加藤さんの作る雑誌はここから始まったのだった。加藤さん、29才。


サウンド・システム

 『レゲエ’82』の次号が出たのは翌83年3月だった。約1年を経ての第2号は『サウンド・システム』と名前を変えての登場となった。1年という時間がかかったとはいえ、内容は充実し、雑誌としての体裁も整ったモノになっている。内容では「スペシャル・サンクス」にクレジットされている山名昇の貢献が大きかったことは想像に難くない。ビジュアルでは井上亀夫が手伝ってくれるようになったのが大きかったであろう。相当見やすくなっている。内容も充実。ジャマイカのことをダイレクトに伝えたいという気持ちが伝わってくる。82年に渡ジャマイカした高橋健太郎、石田昌隆、菊地昇といった人たちの文章や写真を数多く使いつつ、レゲエの大きな特徴でもありわかりにくいDJに焦点を当てるなど、レゲエという音楽を俯瞰してとらえようという意欲が見られる。書き手は前号から大きく変化無いけれども、相当に雑誌として成熟した。『サウンド・システム』という名前も多分に戦略的だ。


 結果論かもしれないが、80年代の頭にレゲエの専門誌を立ち上げたという意味は大きかった。それは85年にレゲエが打ち込みへと大きく舵を切るという大転換点以前に雑誌が立ち上がっていたことは、これから起こる出来事をつぶさに観察するという使命のようなモノを帯びたといってもいいかもしれない。『サウンド・システム』の時代に入ると、レゲエのデジタル化、ダンスホール・レゲエのデジタル化の時代に突入していく。


 レゲエにとって大きな変化の時代、そこに日本には『サウンド・システム』〜『レゲエ・マガジン』があったのだ。デジタル・レゲエは、レゲエと呼びたくないというオールド・ファンが多い中で、加藤さん率いる『サウンド・システム』〜『レゲエ・マガジン』は、その変化にヴィヴィッドに対応した。『サウンド・システム』〜『レゲエ・マガジン』の初期には、ジャマイカのレゲエのデジタル化に呼応した、佐川修や山口直樹(ナーキ)といった若い世代の書き手がよりリアルなジャマイカのレゲエを伝えようと躍動しはじめていた。両人は早い時期からジャマイカに渡るようになり、そこで得た情報は誌面に遺憾なく発揮されるようになった。


 85年、「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」が始まる。正確には第1回目は、「レゲエ・サンスプラッシュ・ジャパン」だった。余談だが、1回目の「レゲエ・サンスプラッシュ・ジャパン」は、世界的に「レゲエ・サンスプラッシュ」興行を行っていたジャマイカのシナジーと日本の新興の会社、タキオンが組んで行ったモノだった。しかし、シナジーのアーティストへの態度やギャラの搾取など納得いかなかったタキオンは、翌年から自分たちの手で「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」としてコンサートを開催することにしたのだった。シナジーは当初、日本の会社なんかにレゲエのコンサート運営なんて出来るはずないと冷ややかだったそうだが、タキオンは意地もあり、「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」を運営、成功へと導いた。タキオンとしてはこれからレゲエのコンサートを成功させるためにはレゲエ自体の啓蒙普及を欠かすことは出来なかった。そこで白羽の矢が立ったのが、加藤さん。加藤さんとしても、コンサートと一体的に雑誌を発行することはメリットだったから、お互いの利害が一致したわけだ。


『レゲエ・マガジン』第1号 87年3月発行

 加藤さんはタキオンに合流し、そこで『サウンド・システム』は、『レゲエ・マガジン』として新たな体裁でタキオン社から発行されることとなった。『レゲエ・マガジン』は、ほぼ年に1回のペースで出ていた『レゲエ'82』〜『サウンド・システム』とは異なり、隔月での定期的な発行をすることとなる。『サウンド・システム』で確立してきたスタイルを隔月という以前よりは短いタームで出すこととになり、記念すべき『レゲエ・マガジン』第1号は、87年3月に出た。


 『レゲエ'82』『サウンド・システム』と『レゲエ・マガジン』との大きな変化は「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」などイベントとリンクすることによりレゲエを多角的に見せるという視野が広がったこと、イベントのスタッフでもあったニュージャージー在住のソニー落合のネットワークによりニューヨークのレゲエ・シーンがより近くなったこと等々あるが、そこは先にも書いたように山口直樹や佐川修といったダンスホールに強く影響を受けた若い書き手が活躍したことだ。『レゲエ・マガジン』の最初期では、サウンド・システム、ダンスホールといった日本にいるとなかなか見えにくい世界を何とか伝えようとする強い意志を感じる。


 イベントとリンクするということは、イベントの媒体誌的な性格を帯びることとなり、現場をダイレクトに伝えるということとはかけ離れる部分があったかもしれない。しかし、初期の『レゲエ・マガジン』は、レゲエという音楽の魅力を伝えようという熱い思いのこもった雑誌だった。


 80年代末になると、ランキン・タクシーは『ブラック・ミュージック・レヴュー』(『ザ・ブルース』の後続誌)で連載していたし、ニューウェイヴ喫茶ナイロン100%の店長だったザイオン中村(中村直也)は『週刊プレイボーイ』でレゲエ・チャートを展開していたし、ミュート・ビートがメジャーからレコードをリリースするようになり、最初はそのファン機関誌的な役割として『リディム』も創刊されるなど、レゲエ情報も少しずつ入ってくるようになった。そんな中、「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」と『レゲエ・マガジン』は日本のレゲエの普及・拡大に大きな役割を果たしたのだった。


つづきはこちらから


pagetopへ戻る

藤川毅のレゲエ虎の穴/特別編 追悼:加藤学〜日本のレゲエ・ジャーナリズムの歴史

JUST MY IMAGINATION
ENTERTAINMENT
INTERVIEW
FM BANA
REGGAE 虎の穴
1-2-3-4-5-6-7-8-9-10-11-12
REGGAE
ともだちのフリして聞いてみた
TELL ME TEACHER

Google www.247reggae.com

レゲエ・レーベル/プロダクションでVPレコード/グリースリーヴス/ビッグ・シップ等の海外レゲエ・レーベルの日本正規代理店
24×7 RECORDS | REGGAE TEACH ME EVERYTHING

Copyright(C) 2015 24×7 RECORDS All Rights Reserved.