藤川毅のレゲエ 虎の穴 REGGAE TIGER HOLE

 さて、クリッシーの発言に出てくる“ロキシー・クラブ(Roxy)”。コレがポイントです。これは1976年12月14日にアンディ・チェゾウスキーがオープンさせたクラブです。アンディはマルコム・マクラーレンの下にいた人物。この“Roxy”で、レッツは、DJとして雇われ、“Acme Attractions”のジュークボックスと同様に、ダブとレゲエを中心にかけていたと言います。イギリスのパンクはかけなかったというのは、以下の年表を見ていただければおわかりの通り、“Roxy”がオープンした頃というのは、イギリスのパンクのレコードはまだほとんど出ていなかったのです。ですから、イギリスのパンクス達のサウンドに強い影響を与えたアメリカのMC5やストゥージズ、ラモーンズやニューヨーク・ドールズなどの曲とジャマイカのレゲエ、ダブばかりをかけていたわけですね。“Roxy”では毎晩、レゲエやダブがブンブンとうなっていたのです。それではここで“Roxy”がオープンした前後のトピックをちょっと時系列で並べておきます。

75年11月
セックス・ピストルズ、グレン・マトロックが通っていたアート・カレッジで最初のギグ。

76年2月12日
セックス・ピストルズ、エディ&ザ・ホット・ロッズの前座で“Marquee”出演。

76年2月22日
ノッティングヒルに“Rough Trade”開店。

76年4月23日
101'ERS(ワン・オー・ワナーズ)でセックス・ピストルズ、“Nashville Room”に出演。

76年5月16日
パティ・スミス初ロンドン公演。サポートはストラングラーズ。

76年7月4日
ラモーンズ初ロンドン公演。サポートはストラングラーズ、フレイミング・グリーヴルーズ。

76年7月4日
シェフィールドの“Black Swan”にてクラッシュが初ライヴ。セックス・ピストルズの前座として。

76年7月6日
セックス・ピストルズ、“100 Club”でライヴ。サポートはダムド。

76年9月20〜21日
“100 Club”にて「PUNK ROCK FESTIVAL」。出演はサブウェイ・セクト、スージー & ザ・バンシーズ(ドラムはシド・ヴィシャス)、クラッシュ、スティンキー・トイズ(フランス)、ダムド、バズコックス。

76年10月9日
EMI、4万ポンドでセックス・ピストルズと契約。

76年10月22日
ダムド、シングル「New Rose」をスティッフより発売。初のパンクのシングル。

76年11月19日
セックス・ピストルズ、シングル「Anarchy In The UK」発売。

76年12月7〜22日
セックス・ピストルズ「ANARCHY IN THE UK TOUR」実施。ダムド、クラッシュ、ジョニー・サンダース&ハートブレイカーズとともに。

76年12月14日
コヴェント・ガーデンに“Roxy”開店

77年1月1日
“Roxy”でクラッシュ公演

77年1月28日
ストラングラーズ、シングル「Grip」発表。

77年2月
グレン・マトロック、セックス・ピストルズ脱退。かわってシド・ヴィシャス加入。

77年2月18日
ダムド『地獄に堕ちた野郎ども』発表。初のパンク・アルバム。

77年3月10日
セックス・ピストルズA&Mと契約発表(その前にEMIが5万ポンド支払い契約破棄)。

77年3月18日
クラッシュ、シングル「白い暴動」発表。

77年3月28日
セックス・ピストルズ、“Nortre Dame Hall”でシド・ヴィシャス加入後初ライヴ。

77年4月15日
クラッシュ、デビュー・アルバム『白い暴動』発表。

77年4月15日
ストラングラーズ、デビュー・アルバム『夜獣の館』発表。

77年5月27日
セックス・ピストルズ、シングル「God Save The Queen」発表。チャート2位に。


 ごくごく簡単に76年から77年前半のパンクのトピックスを並べてみましたが、この時期のパンクの動きが実にめまぐるしいものだったかわかっていただけると思います。年表について簡単に説明を加えると、101'ERSは、ジョー・ストラマーが在籍していたバンドのこと。ミック・ジョーンズがポール・シムノン、キース・レヴィンらと組んでいたロンドンSSと101'ERSを抜けたストラマーが合流したのがクラッシュとなりました。クラッシュという名前はストラマーが合流したときにシムノンが提案し、改名したと言われています。76年4月には101'ERSでライヴをしていたストラマーが2ヶ月半後の7月4日にはクラッシュとしてライヴを行っているわけですね。実際には76年5月30日の101'ERSのライヴの後でストラマーを誘ったと言うことのようです。


 先にも書いたように、アフリカン・ディサイプルズと名乗っていたグループが、ジョー・ギブスで録音し、カルチャーという名前でリリースを始めたのが76年。身近にドン・レッツという存在があったから、この76年の7月前にカルチャーの存在を知っていても不思議ではありません。シングル「Two Sevens Clash」のジャマイカでのリリースは76年で、カルチャーはまだアルバムも出ず、レゲエ愛好家にのみ知られている存在。だからこそバンド名、クラッシュが「Two Sevens Clash」にちなんでいるというのは実に納得のいく説ではあります。しかし、当のシムノンはMTVのインタヴューで、「新聞か何かを読んでいたらクラッシュという言葉が引っかかっていたのでそれを提案した」と話しており、「Two Sevens Clash」説を認めているわけではありません。

 キース・レヴィンは、76年9月の「PUNK ROCK FESTIVAL」の時点では脱退していました。後に彼は、ピストルズ脱退後のジョン・ライドンとパブリック・イメージ・リミテッド(P.I.L.)を作ることになります。

クラッシュ『BLACK MARKET CLASH』 クラッシュ『BLACK MARKET CLASH』

CULTURE CLASH DREAD MEETS PUNK ROCKERS 警官隊に向かう男(ドン・レッツ)

 ミック・ジョーンズらがクラッシュ前に活動していたロンドンSSをマネージメントしていたのは、先にマルコムとヴィヴィエンの店でTシャツのデザインをしていたと書いたバーナード・ローズでした。“Acme Attractions”を開く頃にはすでにバーナードは同じキングズ・ロードのアンティクエリアスに自身の店を持っていました。そこで扱っていたのは、自作のシルク・スクリーン・プリントのTシャツやレゲエのレコードだったそうです。同じくレゲエを好きなレッツとバーナードがごく近くで店をしていて仲良くならないはずがないのです。バーナードはクラッシュのマネージメントをCBSと契約後も続けましたから、クラッシュ関係の映像の仕事をレッツがするようになったのは当然の結果でした。
 また、クラッシュに『BLACK MARKET CLASH』というアルバムがありますが、このジャケットのもとになった警官隊に向かう男の写真の、警官隊に向かう男はレッツです。レッツによると、別に警官隊に向かって行っていたわけではなく、歩いていただけ、なのだそうですが。このジャケットもバーナードやクラッシュのメンバーとレッツとの蜜月を物語っていると言っていいですね。レッツの自著『CULTURE CLASH DREAD MEETS PUNK ROCKERS』の表紙も同じ写真が使われています。


 クラッシュのファースト・アルバムの裏面には、1976年にノッティングヒルのカーニヴァルで起きた暴動の模様がコラージュされています。最近では、ノッティングヒルというと、映画『ノッティングヒルの恋人』の影響で、暴動などとはかなりかけ離れたお洒落なイメージがありますが、実は大きな暴動が2度も起きた場所です。クラッシュのファースト・シングル「白い暴動/White Riot」は、76年の暴動にシムノンとストラマーが巻き込まれたことから書かれたものです。ノッティングヒルのカーニヴァルというとレゲエ・ファンにはなじみのある盛大なカーニヴァルですが、このカーニヴァルも1958年にこの地で人種差別に起因する暴動が起きたことから、それを機会に翌年の1959年にスタートしたものです。

アズワド『LIVE + DIRECT』 アズワド『LIVE + DIRECT』

 ノッティングヒルは、ラドブローク・グローヴやポートベロ、ノッティング・ヒル・ゲイト、ノース・ケンジントンなどの地域からなっていて、カリビアンが多い地域としても知られています。なかでもノース・ケンジントンはカリブからやってきた人たちの最初期の定住地でした。ストラマーはラドブローク・グローヴの出身ですから、ブリクストン〜フォレストヒルで育ったシムノン同様、ジャマイカン達とは交流があったはずですね。また今でも数々の再発をおこなっているオネスト・ジョンズはポートベロにあり、当時はパンクとレゲエを両方扱う店でした。この店ではレゲエ研究家のスティーヴ・バロウがアルバイトしていたこともあります。ちなみにアズワドの拠点もこの地域のラドブローク・グローヴで、名ライヴ盤『LIVE + DIRECT』もこのノッティングヒルのカーニヴァルでのライヴを収めたものです。1958年の暴動については、ジュリアン・テンプル監督で、デイヴィッド・ボウイやパッツィ・ケンジット、シャーデーらが出演した映画『ビギナーズ』でも描かれていますので、興味のある方はどうぞ。


 原稿長くならないようにしようと言いながらずいぶん長くなってしまったので先を急ぎます。


 1977年、“Acme Attractions”のオーナーだったジョン・クリーヴァインは、地下にあった“Acme Attractions”を閉めて、新たな店をキングズ・ロードのワールズ・エンドとスローン・スクエアの間に開きました。それが有名な“BOY”です。パンク・ファッションの有名店として日本でも有名だった“BOY”ですが、この店の商業主義とレッツは相容れなかったらしく、最初こそ運営をジャネットと手伝ったらしいものの、やめてスリッツのマネージメントをはじめました。

 スリッツは、デニス・ボヴェルがプロデュースしたことで有名ですが、メンバーのヴィヴとパルモリヴはシド・ヴィシャスとキース・レヴィンとザ・フラワーズ・オブ・ロマンスというパンク・バンドを76年の時点でやっていたなど初期パンク期からの重要人物でもありますし、2010年10月22日に他界したばかりのメンバーだったアリ・アップのお母さんはジョン・ライドンの妻(つまりアリの義父がジョン)だったりして初期パンク・シーンにおける重要なところにいました。アリとレッツの関係についてはこの連載の3回目(ジョー・ギブスの2回目)でも簡単に触れていますので、ご覧くださいませ。レッツは、スリッツをクラッシュの最初のツアーに同行させることに成功させましたが、割と早い時期にマネージメントからは手を引き、映像作家として活躍しました。また、後にミック・ジョーンズがクラッシュ脱退以後結成したビッグ・オーディオ・ダイナマイツのメンバーとして活躍もしました。

カルチャー「I'm Not Ashamed」 第2弾シングル「I'm Not Ashamed」

 先にセックス・ピストルズ脱退後のライドンが、ジャマイカに行ったという話を書きましたが、それに同行したのも、レッツでした。そのきっかけは、ジョンがロンドンのキャピタル・ラジオ「トミー・ヴァンス・ショウ」への出演でした。ジョンは、この番組のために選曲をしました。選んだのは、キャプテン・ビーフハート、カン、ピーター・ハミルなどロック・フィールドのものもありましたが、それ以外に、ドクター・アリマンタド「Bone For A Purpose」、フレッド・ロックス「Walls」、カルチャー「I'm Not Ashamed」、ヴィヴィアン・ジャクソン & プロフェッツ「Fire In Kingston」やオーガスタス・パブロ「King Tubby Meets Rockers Uptown」などのレゲエも含まれていました。

 これを見たヴァージン・レコードの創業者、リチャード・ブランソンは、ジョンにヴァージンのA & Rとしてジャマイカに行かないかと誘ったのです。結局、ジャマイカ行きが実現したのは、セックス・ピストルズ脱退後でした。ヴァージン自体は、70年代の半ばからすでにレゲエのレコードを出していましたが、フロントラインというレーベルでレゲエを数多く出すようになったのは78年のことです。実はこのフロントラインの生みの親は、レッツとライドンだったのです。イギリス生まれのレッツにとってジョンとのジャマイカ行きが、初めてのジャマイカだったようです。ライドンは自伝でこのように述べています。

クラッシュ『LONDON CALLING』と『SANDINISTA!』  「ヴァージンのブランソンがレゲエ・バンドと契約するのを俺が手助けしているのが、シドは気に入らないようだった」

 これから先のことを書き出すときりがないので、今回はこのあたりで原稿をしめることにしますが、後にクラッシュが79年『LONDON CALLING』〜80年『SANDINISTA!』へとレゲエ色を強くしていく根っこの部分にレッツとのレゲエを聴いていた日々があることはおわかりいただけたでしょうか。また、『LONDON CALLING』で重要な役割を果たしたプロデューサーのガイ・スティーヴンスについても触れたいと思ったのですが、今回も長く書きすぎていますのでいつかどこかで書きたいと思います。


 それにしても、なぜパンクスたちはこれほどまでに、レゲエを愛したのでしょうか?

 もちろんイギリスのポップ・チャートには、60年代から時折ジャマイカの音楽やジャマイカ音楽に影響を受けた音楽がチャートを賑わせてきたので、イギリスのポピュラー音楽においては、ジャマイカの音楽と言うものが特別な位置を占めていたのは間違いありません。それは、ジャマイカをはじめとするカリブ地域から多くの人がイギリスに移り住み、ジャマイカの文化というものがイギリスの人たちの生活に入り込んでいたことがあります。なかでもジャマイカンの多く住む地域で育ったパンクスにとってはジャマイカの文化は実に親しみやすいものだったはずです。パンクを支えていた人たちが、社会への不満を訴える主に労働者階級であったことも、同じく人種的差別され、結果的に貧しいイギリスでの生活を強いられたイギリスのジャマイカン達と共感するところは多かったはずなのです。そして、実にクリエイティヴだった70年代半ば以降のジャマイカの音楽は、ダブという実験的な手法の新しさもさることながら、ラスタファリアン達のシンプルな言葉ながらも強い訴えは、パンクスにも強く響いたはずなのです。 ジャマイカという貧しい国の人たちが、貧しいながらも知恵と想像力で前例など気にせず次々に新しく素晴らしい音楽を生み出していることは、パンクスにとってのリアリティだったであろうと思うのです。そして、パンクスは、単にジャマイカの音楽にシンパシーを抱いていただけでなく、イギリスのジャマイカン達にもシンパシーを抱いていました。クラッシュのファースト・シングル「White Riot」では、このように歌っています。

Black people gotta lot of problems
But they don't mind throwing a brick
White people go to school
Where they teach you how to thick

黒人達は多くの問題を抱えている
でも彼らはそんなこと意に介さず、煉瓦を投げる
白人達は学校へ行き
腑抜けになることを教えられる


 ここで、クラッシュは、76年のノッティングヒルの暴動で行動する黒人にインスパイアされ、白人も暴動を起こさねばと歌っているのです。当時のイギリスの黒人達は、悪名高いSUS法(不審者抑止法)によって警察から目の敵にされていました。1976年には人種や肌の色、国籍にかかわらず平等であるべきと定めた人種関係法が成立していたにもかかわらず、76年以降も警察の黒人に対する攻撃はやまなかったのです。このような背景を受けて、70年代半ば以降に登場したイギリスのレゲエ・バンドは実に政治的でした。スティール・パルスの「Blues Dance Raid」の歌詞からは横暴な警察な姿が浮かび上がります。パンクス達が社会に向けてNOを宣言したのと同様に、イギリスのレゲエ・バンド達、スティール・パルス、アズワド、マトゥンビ、ミスティ・イン・ルーツらはポリティカルな作品を作り続けたのです。同じ時期に社会への不満をぶつけたパンク・バンドとレゲエ・バンドは共にツアーするようになりました。ストラングラーズとビリー・アイドルのジェネレイション・Xはスティール・パルスと、イアン・デューリーはマトゥンビ、エディ& ザ・ホット・ロッズはアズワッド…と言った具合に。そしてこの動きは、反ナチス同盟が企画したロック・アゲインスト・レイシズムへと大きな流れを作っていきます。これには、エルヴィス・コステロやポリスなども参加し大きな動きとなりました。結果的に81年にはSUS法が廃止されるなど大きなうねりへとつながったわけです。

 パンクス達とイギリスのレゲエ・バンドやレゲエ・アーティスト達とは、人種は違えども共通する問題意識があったということが、大きな連帯へとつながりました。レッツも著書で書いているように少なからずポリティカルな人物です。しかし、最初期のパンクス達は、政治的な問題だけでなく、ごく自然にジャマイカの音楽を楽しんでいたはずなのです。クラッシュというバンド名がカルチャーの「Two Sevens Clash」からとられたという都市伝説のようなものの真偽はさておき、パンクス達が自分のバンド名をレゲエの曲名からつけたというお話は、パンクスがレゲエを愛していた話を象徴する話としていい話だと思うのです。


 結局、今回の連載原稿も長くなってしまいすいません。ほかにもパンクとレゲエの小ネタはたくさんあったのですがこれはまたの機会にしましょう。それではまた!



藤川 毅 [ふじかわたけし]
1964年鹿児島市生まれ。
高校卒業後、大学進学のため上京。
大学在学中より音楽関係の仕事をスタートし、『レゲエ・マガジン』の編集長など歴任するも、思うところあり、1996年帰郷。
以来、鹿児島を拠点に会社経営をしつつ、執筆活動などを続ける。
趣味は、自転車(コルナゴ乗り)と読書、もちろん音楽。
Bloghttp://www.good-neighbors.info/dubbrock
Twitterhttp://twitter.com/dubbrock

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